SSブログ

嘘つき役人が多い時代に官僚の鑑としての竹内直一さんの話 [政治・経済]

嘘つき役人が多い時代に官僚の鑑としての竹内直一さんの話



この転載記事を読むと、現在の官僚はかっての高度成長期時代に日本の
発展を考え、多くの成長政策を作って来た官僚とは全く違うことがよく
わかります。

しかし、現代のこうした官僚主義と真っ向から戦った官僚もいたのです。


(ここから)

「リベラル21」に興味深い記事が出ていた。行く人についていい話が少ない時だから参考マテに紹介する。
貼り付け
2020.01.08   私が会った忘れ得ぬ人々(16)
竹内直一さん――日本の高級官僚の大半は公僕意識がない

横田 喬 (作家)
                   
 安倍首相ら一統による「桜を見る会」がスキャンダル化しているが、論及は次回に回す。「もり」「かけ」問題が先ごろ安倍政権を強く揺るがした時、私はキャリア官僚出身で無類の正義漢である竹内直一さんの面影を懐かしく思い起こした。

森友学園問題では、決裁文書の改竄をめぐって国有地の値引きを担当した近畿財務局から自殺者まで出した。だが、証人喚問を受けた佐川宣寿国税庁長官は「刑事訴追を受ける恐れがあるから」と五十五回も証言を拒否。大阪地検特捜部は「証拠不十分」として、なんと不起訴処分に。一方、加計学園問題では、前川喜平前文科省事務次官が退官後に「加計ありきで行政が歪められた」「民主主義の危機」と痛烈な安倍政権批判を展開している。

 もし竹内さんが健在なら、佐川氏や大阪地検の情けない体たらくを痛罵し、前川氏の毅然たる言動に喝采を送るに違いない。今から四半世紀余り前の一九九三(平成五)年、『朝日新聞』記者だった私は彼を単独インタビューし、以下のような記事(要旨)を記している。
 ――京都で生まれ、東大法学部を出て農林省へ。昭和四十二年、出向先の経企庁で国民生活局参事官として在任中、牛乳の一斉値上げに抵抗し、撤回させる。このため、乳業各社とそれに同調する農林省に排斥され、翌年退職に追い込まれる。

 その翌年、日本消費者連盟を旗揚げし、運動の第一線に。欠陥商品を社名入りで追及し、詐欺的商法を告発。幅広い分野で「消費者主権」確立を目指し。着実に成果を上げてきた。
 「農林次官をやったのが大手乳業メーカーの副社長に天下りしていて、竹内が主婦を扇動して我々に数十億の損害を与えた、けしからん、やめさせろとねじ込んだんです。日本の高級官僚の大半は公僕という意識なんて全くなく、業界の下請けを平気でやり、自己の栄達を図ることに汲々としている」

 「人事院にも出向したからわかったが、日本の官僚組織は欧米とは大分違う。政治家になるための予備校的感覚で役人になったり、公益法人と称して必要もない外郭団体を作って役員に天下りしたり。天下りは補助金という持参金付きだから、税金の莫大な無駄遣いです」
 「規制緩和が問題になってますが、役人が許認可権にこだわるのは、手放せば自分たちのクビ切りにつながるから。日本のように社会が成熟すれば、小さな政府でいい。民間がリストラに努めているんだから、役所だって当然リストラに励むべきです」
 明快で痛烈な指摘は小気味よかった。硬骨漢の見本のような75歳。――

 帰りしな、竹内さんは立ち話で、こうも言い添えた。
 ――官僚は公僕なのに勘違いをし、「オレたちが国を支えている」と本気で思い込み、議会を「お荷物」視し、主権者の国民を「衆愚」視して、何も知らせようとしない。大事なのは、国民が「東大出などのキャリア官僚は優秀」という思い込みから先ず抜け出すことです。

 竹内直一(敬称略)は一九一八(大正七)年、京都御所のすぐそばで生まれた。父は商人で、両親とも「進学も就職も好きなように」と本人任せにする人柄だった。府立一中~旧制三高当時は柔道や陸上競技に打ち込み、体づくりには食べ物が何より大事と気づく。
東大法学部へ進み、本郷の古本屋で『農村青年報告』という本に接し、農村の実態や農民の苦しみを知る。四一(昭和十六)年に高文試験に通り、農林省へ入る。同年暮れ、太平洋戦争が勃発。繰り上げ卒業~海軍主計中尉として南方戦線へ送られ、辛酸をなめる。

敗戦後の四五年暮れに帰国~復員し、農林省へ。飼料課長として働く六一年、自民党党人派の「暴れん坊」河野一郎が農林大臣に就く。飼料会社オーナーでもある彼は、飼料払い下げを恣に行おうと企て、生産者団体側に立とうとする竹内との間で強い摩擦が生じる。
上司の畜産局長は実力者の河野に尻尾を振る男で、同僚の課長連中もその威勢になびく者が大半。孤立した竹内は局内で深夜まで吊し上げを食ったりした。彼はこう振り返る。
 ――目端が利く者は皆忠勤を励み、河野邸が東京・目黒に新築されると営林局長が立派な庭石や庭木をせっせと運び込む。みんな管下の国有林から剽窃してきたものだった。

 権力者に盾突く役人は徹底的に干される定めだ。竹内に愛知用水公団東京事務所長への出向命令が下る。職員はほんの数名で、仕事の内容は理事長のカバン持ちと上級官庁への連絡折衝の下請け業務。政界人や高級官僚らのご機嫌を取り結ぶ役回りに二年余り耐える。
 が、どうにか農林省に戻り、大臣官房経理課長などを経て六五(昭和四〇)年に経企庁へ出向。新設された国民生活局の参事官(局次長相当)に任ずる。

竹内は商品の不当表示問題や独禁法違反のヤミ再販問題などを取り上げ、国会の商工委員会などで野党委員に追及してもらい、消費者側に有利に運ぶよう取り計らう。翌々年春、農林省は牛乳の小売価格(六七年当時で一八〇㏄が二十円七十銭)を一本二円値上げしたい、と内閣に申し入れる。同省はそれまでも行政指導の形で「一円上げろ」「二円上げろ」と各県に通達。実質的な公定価格で全国一律一斉の値上げが罷り通っていた。竹内は消費者の側に立ち、このような慣行はもはや許されぬと判断。野党側に働きかけ、国会で倉石忠雄農相が厳しく追及され、値上げ案は撤回へ追い込まれる。

 乳業メーカー各社は値上げ幅も値上げ時期もばらばらに陥り、大慌ての体に。このため元農林次官で森永乳業副社長に天下りしていた男が「農林省出身の竹内という男が消費者を扇動し、業界に数十億もの大損害を与えた。即刻、首を切れ」と農林省へ怒鳴り込む。
 ほぼ一年後、竹内は農林省に戻され、「大臣官房付き」というヒラの身分に。事務次官か
ら「辞めて民間に行け」と宣告され、退職金や年金の計算でワリを食うヒラ扱いでの退職に追い込まれる。彼はこう述懐する。「官僚機構の秩序を乱す者はこんな目に遭うぞ、という見せしめのお仕置き。日本の官僚の大多数が業界の顔色を窺って仕事をし、国民の幸せを考えようとしない何よりの証拠です。」

 農林省を退官後まもなく、竹内は身一つで日本消費者連盟を旗揚げし、活動に乗り出す。
七〇年、経企庁在籍当時に集めた資料を基に「不良商品一覧表」を公表し、各社の欠陥商品を社名入りで厳しく追及する。さらに、強引な訪問販売や街頭でのキャッチ・セールで英会話教材などを売りつける米国系のブリタニカ商法を東京地検に告発。勝利を収め、男性参加の「告発型」と言われる消費者運動を新たに切り開く。

そして、当時は街中の豆腐屋さんが防腐剤として常用していた食品添加物AF2の毒性に注目。マスコミなどとも共闘して追放運動に乗り出す。七四年にAF2の発癌性が実証され、使用禁止へ持ち込む。その戦闘的な運動スタイルから「日本のネーダー」(注:ラルフ・ネーダーは環境問題や消費者の権利保護問題などに長年取り組んだアメリカの社会運動家・弁護士)と呼ばれるに至る。

 同年、「すこやかないのちを子や孫の世代へつなぐ」ことを理想に掲げ、各地の草の根運動の結集に乗り出す。有害食品・不当表示・詐欺的商法・原子力発電・農薬など幅広い分野で「消費者主権」の確立を目指す運動を展開。八〇年代以降は国際交流にも力を入れ、八九年には「アジア太平洋消費者会議」を東京で開催する。マレーシアの熱帯雨林地域サラワク出身の女性から「日本への木材輸出で、私たちの森は後十年で裸になる。日本の山は青々と茂り、人々は割り箸を平然と使い捨てにしている」となじられ、忸怩としたと言う。
 竹内さんは〇一年、大動脈瘤破裂のため八十三歳で亡くなった。  

(ここまで)



nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

オレンジャーからのメッセージ「あなたの宇宙」 [アセンション]

オレンジャーからのメッセージ「あなたの宇宙」


(ここから)

おれはオレンジャー!

日々あなたは
自分自身の宇宙を
創造している

あなたによって
生み出された宇宙には
あなたの意思や意図が
色濃く反映されている

あなたの感情や感覚は
その宇宙から生み出される
リアルな現実世界に対して
強い力を与えている


あなたが生み出した世界を
肉体と肉体に備わる五感を通じて
あなたは現実世界として
再認識する

あなたの宇宙の中で
全てのエネルギーは
あなたの意識の
向かう方向へと
流れていく

あなたの宇宙で
あなたが受け取るひらめきは
あなたの世界において
行動することによって
現実化されていく

すべては無限にある

不足から始まるのではなく
すべてが与えられている
意識をベースにおいて
あなたはあなたの創造活動を
行えばいい

不足に感じるのは
あなたが見えていない
ただそれだけのこと

そしてそれは
あなたが見ようとして
いないということ

あなた自身が
あなたの宇宙を
創造しているということを
忘れないでほしい

今日はこんなところだ
じや!


(ここまで)


「あなた自身があなたの宇宙を創造している」

と言う言葉はまさに至言だと思います。

そこに良い悪いはあったとしてもすべてが自分自身の

反映だということですね。


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたの後ろに霊がいる???」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたの後ろに霊がいる???」



(ここから)

家でいろんな音が鳴るんです。

パキパキとかギシギシとか・・霊能力があるという方に

見てもらうとそれはラップ音、心霊現象ですと言われました。

その上、ここにはたくさんの霊がいます・・とも。

除霊とかした方が良いのでしょうか?


というご質問をいただきましたぁ~~

どうしたらいいの?教えてアシュタールぅ~~


「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

あなたのまわりにはたくさんの霊(異次元の存在)がいます。

波動領域を住み分けているので見えないし、存在も感じません。

そのままでいいのです。

あなた達は物質次元を楽しみ、異次元の存在(4次元の存在)は

そこを楽しんでいればいいのです。

住み分けていれば何も問題はありません。


ただあなた達の中には異次元の存在と波長を合わすことが出来る

ツールを持った方もいらっしゃいます。

その方は異次元の存在を見たり(肉眼では見えませんがエネルギー的に

見ることが出来る方もいらっしゃいます)感じたりすることが出来ます。

それはその方がそこに合わせているからです。

その方も合わせなければ異次元の存在は関与して来ません。


あなた達は、怖いものが好きだという面白い性質を持っています。

怖い、怖い、イヤだ、イヤだ・・といいながら楽しんでいるのです。

わざわざお化け屋敷に入ってキャーキャー言っているのも怖いという感情を

楽しいと思うからですね。


ですから、異次元の存在がいるとか、霊がいるとか言われると

とても興味を持つのです。

怖いと言いながら興味深々で聞きます。

怖いと思うことを楽しむこともまた物質次元での楽しみのひとつでも

ありますので、それを楽しいと思うならば十分楽しめばいいと

思います。


でも本当に怖いならばフォーカスすることをやめればいいのです。

フォーカスすることをやめれば一切何も関与することはありません。


たとえばギシギシと音がしても、建物がきしんでいるんですねと思えば

何も怖くはありません。

そこにもしかしたら霊?などと思考してしまうから怖くなるのです。

でも、怖いと思いながらまたそこにフォーカスします。

自分でその世界を想像し怖がって遊んでいるのです。


そしてもし、霊が見えるという方にあなたの後ろに霊がいますと

言われても大丈夫です。

霊?異次元の存在はどこにでもいます。

あなたの後ろにも前にも横にもどこにでもいるのです。

霊が見えるという方がひとり?ひとつ?の存在にフォーカスして

そのひとつだけしか見えないだけなのです。

だから、後ろに霊が見えると言われても怖がらないでください。

浄霊しようなどと思う必要はありません。

ただ住み分けているだけなのですから、興味をもつ必要はないのです。


反対に浄霊などといって自ら関与しようなどとしてしまうと困った

ことになります。

ただ存在しているだけなのに、突然叩かれたり、シッシッなどといって

追い払われたりしたらどうでしょう?

あなただったらどうですか?

怒りますね。

異次元の存在は愛の割合は3次元的な存在なのです。

高次元の存在ではありませんので、ケンカを売られたと思えば

彼らも黙ってはいないということです。


盛塩などもいりません。

お札も効力はありません。

何もしない、何も興味を持たないのが良いのです。


怖いことに興味を持つことはそれはそれでいいとは思いますが、

そこに関与しようとしないでください。

遊ばないでください。

浄霊などという行為、考え方は危険を伴います。

それを覚悟の上でなさるのならばいいと思いますが、軽い気持ちで

なさると彼らも黙ってはいなくなります。

浄霊などという行為は(本当にエネルギー的に出来ればという話し

になりますが・・)彼らに対してとても失礼な行いになるという

ことを忘れないでください。


あなたはあなたの世界(物質世界)を楽しんでください。

異次元の方は異次元の体験を楽しんでいるのです。

それでいいのです。


怖い、怖いと言いながら興味を持つということは、そこにフォーカス

するということですので、ずっと怖いと言い続ける現実になります。

本当にイヤならそこではなく、楽しいことにフォーカスを持って

いってください。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。


(ここまで)


触らぬ神に祟りなしということですね。

俗に言うお化けはいないということではなく、存在するということですね。

ただ、それが見える人と見えない人がいるということで、見える人や

彼らのいたすらがわかるに人にはわかるということです。

いつかはお化けについて、リンクするという考えで説明してくれた

こともありますが、結局はその人の意識次第ということになります。

検索してリンク先を探してくるように、検索しさえしなければそのような

体験をすることもないということです。

だから、そうした能力を持ち合わせている人は自分自身の持つ能力を

理解し、必要なければリンクしないことを心がけるしかないということです。

恐いもの見たさに何度も覗いていると、本当に彼らと私たちの世界の境界線

がなくなり、絶えず侵入されたり、向こうに自らが言ったりすることになり

嫌な思いをすることになります。

最初に書きましたが、「触らぬ神にたたりなし」ということです。

それより、そんなことは忘れて自分の世界を楽しみましょう。



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:安心して生きてください・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:安心して生きてください・・・」




(ここから)


今日の破・常識!



死ぬときは死にますし、死なないときは死なないのです。

ならば、生きているいまのこの時間を

精一杯楽しむことに費やしてください

byアシュタール


-------------------------------------------------------------------------------------------------------
                  
 
今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。







「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

突然ですが・・死ぬときは死にます。

死なないときは、どんなことになっていても死なないのです。

アシュタールは何を言っているのでしょうか?


死ぬときは、自分で決めているということです。

死ぬというのは、不測の事態ではないのです。

そんなことを言っても、死にたくないと思いながら

死ぬ人は大勢います。

バカなことを言わないでください・・というエネルギーが

たくさん飛んできますが、それは頭で考えていることです。

死ぬときは、自分で死ぬときが来たと思っていますので、死にます。

でも、まだ死ぬときが来ていないときは、

どんな事態になっても死にません。

言葉で説明するのは難しいですね。

同じことが起きたとしても、死ぬと決めた人は死にますし

死なないと決めた人は、死なないのです。

同じ事故などで死ぬ人と死なない人がいるというのは

そういうことです。

死ぬときは、え?こんなことで死ぬの?

って思うくらいのことでも死にます。

でも、死なないときは、よくこんな状況の中で生き残りましたね

・・ということになるのです。


死ぬ、死ぬとイヤな言葉ばかり出していますが、

アシュタールは一体何が言いたいのでしょうか?

それは、だから死ぬことにフォーカスしないでくださいということです。

死ぬときは死ぬのです・・

だから、死ぬことを怖がってそこにフォーカスするのではなく

生きているいまにフォーカスしてくださいと言いたいのです。

死ぬときは死ぬのですから、どんなに拒否しても死ぬのです。

(拒否をするのは頭です、ハートで死ぬことを決めているのです)

だから死ぬときのことを考える必要はありません。

私はいつ死ぬのだろうか?・・などと考えて怖がる必要はないのです。

死ぬときが来れば死にます。

だから安心して生きてください(笑)

そして、これは余談になりますが・・

だから、余命などわからないのです。

特に病気になって、その病気になった他の人の

いままでの統計からみて、このくらいの余命でしょう

・・などとわかる人などいないのです。

もし、宣告された余命で亡くなったという人がいたら

その人がその余命を受け入れて

自分で死ぬと決めたからです。

余命宣告されたから、その時間で死んでしまったということです。

余命宣告されても、それを受け入れなければ死なないのです。

だから、余命宣告などナンセンスなことだとお伝えしたいと思います。

自分以外の人に、自分の死期など分かりません。

同じ病気で、同じくらいの症状でも

死ぬ人と死なない人がいるのはそういうことです。

そして、死ぬときは痛くもかゆくもありません。

死ぬときは、快楽ホルモンが出るようになっています。

ですから、快楽の中で身体を脱ぐことが出来ますので

安心してください。

死ぬときは、少しずつ死にます・・

またアシュタールはおかしなことを言い出しましたね。

急に死ぬときも、ゆっくり死ぬときも同じです。

(死ぬときには、あなたの時間が変わります。

外の感覚で急死にみえても、あなたの時間は

ゆっくりと流れますので、ゆっくりとショックが少ないように

時間がのびるのです)

少しずつ力が抜けて行きます。

力が抜けるということは、気力がなくなって行くということです。

生きる気力がなくなって行きます。

それはどういうことかというと

生きることに執着がなくなるということです。

生きたいという本能的な執着がなくなるということです。

生きる気力があるときは、死に対して抗う気持ちが大きいのです。

だから、死なないのです。

でも、気力が薄れていくと生きることに執着がなくなりますので

死ぬことが怖いとかイヤだとかいう気持ちもなくなり

スッと死ぬことを決めることが出来るのです。

そして、死ぬことを決めれば快楽ホルモンが出ますので、

気持ちよく快楽の中で身体を脱ぐことが出来るのです。

あまりに簡単に身体を脱ぎ過ぎたために

そして身体を脱いだあとも自分の意識が何も変わらないために

自分が死んだことに気がつかない人もいるのです。

死ぬというのはそのくらいのものです。

みんな必ず死にます。

そして、死んだあとはみんなちゃんと次の世界に行きます。

だから、何も心配はいりません。

死ぬ前は気力がなくなり、生に対して執着がなくなりますので

痛みや怖れなども感じなくなります。

そしていよいよ身体を脱ぐ段になったら

快楽ホルモンがでて快楽の中で脱ぐことが出来ます。

そして脱いだあとも、あなたの意識は何も変わりません。

ただ意識だけの状態になり、あなたの前に死んだ人たちと

同じところに行くだけです。

ね、何も怖がることはないでしょ。

ならば、死ぬときのことを怖がって不安な時間を過ごすより

生きているいまを楽しんでください。

同じ時間ならば、生きている時間を楽しんでください。

今日はなかなか言葉で説明するのが難しいテーマになりましたのが

頭ではなくエネルギーのところで受け取っていただければと思います。

死ぬ前も、死ぬ瞬間も、死んだあとも何も怖いことはありませんし

何も心配することもありません。

そして、死ぬときは死にますし、死なないときは死なないのです。

ならば、生きているいまのこの時間を

精一杯楽しむことに費やしてください。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール! 


(ここまで)


私も、この年になっていろいろな人の死に出逢った来ましたが

死ぬときは案外あっけなく死にます。

そして残された身体は次第に体温が失われ冷たくなり、死後硬直が

始まりますので硬くなっていきます。

そして、ところどころに血液が滞留して出来るうっ血班が出て来る

ようになりますが、それは事故で亡くなった場合には顕著に表れます。

おそらく、亡くなった方の意識は残された自分の身体の周囲か上空に

あると思いますが、ちょうど自分の亡骸を見下ろすような感じになる

だろうと思います。


先日義理の兄が亡くなったときには安置所で一晩過ごしましたが、

亡くなった後の亡骸を見ても未練を感じることはありませんでした。

だから、亡骸に触れたりさすったりするようなことはしませんでしたが

そうした私の姿はとてもとても冷たい人だと見えたことでしょう。

でも、亡骸にはその人の意識はないので、そうした行為は無意味だと

思われるので、そうしないだけなのです。

亡くなった義理の兄には心の中で向こうの世界に旅立つことへの祝辞を

述べ、お疲れさまでしたとねぎらいの言葉を捧げました。

それでいいのだろうと思います。

その方が心置きなく旅立てるのです。


今日も私のことでひと騒動在り、いつの間にか私が瀕死の重傷を負って

いるか亡くなっているんじゃないかと友人を心配させ、2時間ほど

捜しまわっていたそうです。


今のスマホはガラケーと違い、電話をかけるのには、ボタンらしき画像に

触れるだけで発信します。

今日の午後、用事を済ませたあと、もう一人の友人に電話をかけようとした

ところ、信号待ちで赤から青に変わったので、慌ててスマホをしまい込んだ

時に間違って、心配をかけた別の友人の画像をクリックしたらしいです。

そのため、発信中のままになり、受け取った友人は返事はないし、ときおり

流れるミュージックの音が聞こえ、時々私のせき込んだような声がするので

大事があったんだろうと思ったようです。


それで、今日用事を済ませるために会いに行った友人のところに駆けつけ

二人で2時間ほど探し回ったということです。


自宅に戻って来て着信履歴の確認のためにスマホを取り出したときに、

停止ボタンを押したか、自動的に切断されたのかもしれませんが、その

タイミングでもう一人の友人から電話が入り、探し回っているようだと知ら

され、一連の顛末を知りました。


捜しまわっていた二人が自宅に来たので、コーヒーを飲みながら雑談

しましたが、ともかく「心配でどうしようもなかった」と言われ、かなり

責められました。

捜しまわっていた二人は電話が発信中のまま電話に出ないし、ときおり

変な声が聞こえるので途中で車の事故に遭って動けない位の重症だった

のではないかと思ったらしいです。

私も罪なものです。いちど死んだと思わさせたんですからね。

まあ、そんな簡単に死にはしないんだからと冗談にもならないような

言い訳をしましたが、私もそれほど死ぬことは恐れてないということですね。


死ぬことは確かに恐ろしいというイメージを与えますが、死ぬことを

強く意識し続けるとやはり死は近くなります。

だから、普段からそんなことを忘れ今を楽しむことに集中することの

方が良いと思います。






nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。