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中谷良子のブログより「日本はすでに侵略されている」 [政治・経済]

中谷良子のブログより「日本はすでに侵略されている」


アメリカのトランプ大統領はアメリカが中国に侵略されつつあることに気づき
対中政策を出して現在に至っているわけですが、我が国日本はそれどころか
自ら侵略されようとわが身を差し出しているように見えます。

その実態がこの本を読むとよくわかりそうです。
私も先ほど注文しました。

読まないとわからない本当の事実とは





(ここから)

この新書お勧めです!承知していたとはいえ、ここまでとは・・・知らず知らずに蝕まれていく我が国の深刻さに驚愕です。

国民は他人に依存し、国はアメリカにどっぷり依存。薬物依存と同じですね。有効な手のひとつも打たない日本の保守もサヨクも売国。本文に入る前に是非、世界の権威ある政治学者の言葉をご覧ください。ジョン・ミアシャイマー、ウォルツの言葉は説得力がありますね。

今の日本は国民も、なんてことない悩みでさえ人を頼り、依存し、他人に答えを求め、最終的な解決をも求める。自身の頭で考え、解決を導き出せる方々が減っている。何もかも依存の傾向。以下の著者の平野氏も後半の持論を読む限り、諦めモード、従属根性になっていますね。これが戦う気力さえ失ったオスの姿。私が核抑止を強く訴える要因です。

翻って台湾、ニュージーランド、オーストラリアは着々と中国による内政干渉、選挙介入、スパイ活動の防衛策、法整備を進めています。

日本の政治屋はドアホの根性なしばっかりや!

「トモダチ作戦」は日本人を家畜にするための洗脳工作だった!/中国から玩具(女性)の提供を受けている大物政治家 伊藤貫 × 西部邁


「国家にとって頼りになるのは自国だけだ。国際法や同盟関係が国家を救ってくれるわけではない。国際社会とは「神は自ら助くるものを助く」という自助努力社会である。アメリカにとって同盟国とは、しょせん「短期的な便宜上の結婚」にすぎず、今日の同盟国が明日の敵国になる、ということは、よくあることだ。」ジョン・ミアシャイマー

「過去300年間、英仏米露等の覇権主義国は、同盟国を何度も騙したり、裏切ったりしてきた。自立する努力をしない国は、その無責任な外交態度をいずれ後悔することになるだろう。」ケネス・ウォルツ

「自主防衛しない国は、国防で致命的な失敗をする確率が高い。軍事を他国に依存している国の国民は、精神も蝕まれる。軍事力(=自主防衛力)をもたない国は、外部からの攻撃だけでなく、内部からも衰弱し、崩壊していく」モーゲンソー、キッシンジャー、ミアシャイマー、ケネス・ウォルツ、ボーゼン等々



★日本はすでに侵略されている~フェードアウトする国会議員~★

尖閣や竹島問題について、政府は「断固として抗議」を続けています。しかし、他国による侵入と不法占拠は常態化したままで、もはや国民はそれに慣れてしまい、口先だけの国会議員は相手に足元を見られています。

全国の離島や基地周辺が外国人によって買収されているのに、政府の無策と現状追認が続いています。国会答弁も「現状に問題はない、問題があれば検討する」というのが基本スタンスで、要するに、調査も分析も対応しない、ということです。

「国土を守る」「侵略には断固抗議する」保守を自称する議員たちは威勢のいい言葉をよく口にしますが、実際の立法に向けて何も動こうとせず、やがて閣僚や与党幹部として政権側に収まる議員が目立ちます。本来なら、移民法や水道民営化には反対論のひとつもありそうなものでしたが、これまたすんなり成立してしまいました。

愛国ポーズは選挙と猟官のためのパフォーマンスにすぎず、要は「言うだけ」です。目立つ行動は重職に登用されるまでで、その後はほどなく慎重派、親中(韓)派に転向していく。そういう議員を筆者は何人も見てきました。

「それは今にはじまったことではありません。『安全保障と土地法制に関する特命委員会』を見るとよくわかります」自民党のベテラン職員はそう語ります。

この特命委員会は、もとはといえば自民党政調会長(2013年当時)だった高市早苗議員が旗振り役でした。委員長に「ヒゲの隊長」こと自衛隊出身の佐藤正久議員、事務局長に特捜部検事出身の山下貴司議員の体制で始まりましたが、すぐに壁にぶつかります。

「重要区域に規制をかければ地価が下がる。その補償をどうするか?2段ロケットの1段目として、立ち入り調査できる調査法を制定するだけでも相当な抑止効果がある」(佐藤委員長)

「公明党など与党内に慎重論があり、1段目(調査法)さえまとまらない。なんとかしたが、議員立法は全会一致が原則だから難しい」(山下事務局長)

そうこうしているうちに特命委員会は開かれなくなり、以後3年以上、休眠状態に。創設メンバーたちもいつの間にかフェードアウトしてしまいました。それでも3人はいずれも官邸の覚えめでたく、高市議員は2度にわたり総務大臣になり、佐藤議員は外務副大臣、山下議員は法務大臣として移民法(入管難民法)を成立させました。

2017年秋、人々に同特命委員会は再開し、人事も刷新しました。超党派の「日本の領土を守るために行動する議員連盟」会長を務める新藤義孝議員が委員長となり、山谷えり子小委員長(土地の所有関係の情報開示に関する小委員会)とペアでスタートです。再開直後は若手議員らを中心に期待が高まりましたが、再びなぜか長い休眠状態に。2018年以降は、年に1回だけになりました。

特命委の中心となる議員が軒並み政府内の大臣や政務官に登用され、開店休業状態になるのは、別の勢力による一種の懐柔工作なのでしょうか?委員長だけの問題ではなく、他のメンバーも真剣に活動している様子が見られない、と古参議員は残念がります。

国益を守るべき政府や国会議員が動かないのはなぜか?規制どころか、その動きに、逆風を吹かせているのは誰なのか?ここ数年を振り返ると、断片的ながら1つの流れがあることに気付きます。

本格的に規制の動きを始めようとすると、タイミングよく議員のゴシップ記事が流れたり、規制の動きにブレーキが存在しているようです。

「親中派の党幹部が呼び出されて、次の公認は望めないよ、と厳しく指導を受けたらしい」「異性関係や風俗通いのスキャンダルがばらまかれるかも」(特命委関係者)など、結果として、当初は気概のあった議員たちが不思議なほどマイルドになっていくのです。

次の選挙での公認と資金での公認と資金を左右する幹事長か、官僚の人事権を掌握する官房長官か、いずれにせよ、立法府(国会)も行政府(霞が関)も、実質的に両者が牛耳っているといわれます。かつての与党の族議員や、野党を支えてきた各種労働組合のような中間組織が消えていき、権力構造が単純かつ脆弱になっているからかもしれません。

付け加えると、新聞やテレビなどのメディアも、そうした影響を受けてか、報道トーンは、下がったままです。例えば、「新報道2001、日本の国土を守れ!」(フジ系)ですが、2011年春、家具系の有力スポンサーの事情で番組の一部がカットされ、ほどなくシリーズは打ち切られました。それ以降、外資の国土買収を連続して取り上げる番組はタブー視されているかのようです。

改めて考えてみるに、ここ数年、さまざまな分野でニッポンの不明化が浮き彫りになっています。以下の章で順を追って説明していきますが、日本という国の姿のかたち、構成メンバーがだんだん曖昧になっているのです。

急速に少子高齢化が進む時代、辺境の過疎地、無人化を誰も止められないのと同様、グローバル化という名の外国化=中国化を止めることはできなくなってきています。それは短期での成果獲得、経済成長を求めなければならない経済界などの目論見とも一致します。

いや、より正確にいうなら、政府が率先して牽引しています。

実際、長期の視点で我慢することをマニフェストに掲げる政党など、間違いなく選挙で敗けます。面倒なことは言わず、明後日の理想より今日明日の飯のタネが大事。一般的なセンスはそうであり、筆者自身、この国が生き延びるにはそれしかないかな、と考えるようにもなってきました。

「いつかはわかりませんが、将来中国が民主化され、国境が解かれて日中がひとつになったとき、投票すればどうなります?14億対1億、結果は明らかですね」とは、ある左派系法学者の言葉です。中国の李鵬首相の予言通り、やがて日本という国は40年後にはなくなっていくものなのか?


(ここまで)


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雁屋 哲の今日もまた より 「自発的隷属論」 [社会・経済]

雁屋 哲の今日もまた より 「自発的隷属論」



この記事を読んでなるほどと思いました。

私もこの記事を気づきませんでした。

日本人は諸外国の国民性と比べても極めておとなし過ぎると

感じてはいますが、こうした考え方の土壌がこのようにして

形成されていたのかと改めて驚くばかりです。

お上には逆らわない、天皇の言うことは無条件で聞く

上司の指示には抵抗しない、地元の有力者には巻かれる。

すべからくそうなんだと思います。

これが明治時代に作られていたとはまたまた驚きです。

長文ですが、ぜひ読んでみてください。




(ここから)

最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。

「自発的隷従論」という。

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、

(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。

ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。

ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。

あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。

今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。

この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。

「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。

それは、ニュートンの運動方程式

「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」

は短いがその意味は深いのと同じだ。

ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。

読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。

同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。

本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。

私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。

私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。

A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」

B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」

C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」

D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」

E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」

F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」

ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、

「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」

と言う事になる。

「支配されたがっている」

とでも言い換えようか。

それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。

支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。

このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。

ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。

「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。

日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。

というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。

日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。

他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。

大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。

読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。

火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。

上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。



まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。

大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。

1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。

2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。

3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。

4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。

これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。

こんな運動部に絶えず新入生が加入する。

彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。

そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。

毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。

そのしごきが厭になって止める学生もいる。

だが、運動部が廃部になることは滅多にない。

入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。

OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。

この場合の自慢は、自己満足の表明である。

下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。

そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。

本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。

野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。

何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。

運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。

一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。

彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。

いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。



何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。

日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。

日本の会社、官僚の世界も同じである。

日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。

それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。

居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。

「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。

高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。

その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。

さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。

なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。

だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。

会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。

自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。



日本の選挙は、民主主義的な物ではない。

企業、宗教団体、地方のボス、などが支配している。

例えば、企業によっては、係長や課長位の地位になると、上の方から「党費は会社が持つから自民党に入党してくれ」と言ってくることがある。

日本の会社社会では上司の言う事に叛くのは難しい。

特に、中間管理職程度に上がってしまうと、これから先の出世の事を考えざるを得なくなるから、なおのこと上からの命令に逆らえない。

言われた人間は、自民党に入党して、自分の家族の中で選挙権を持っている人間の名前も届ける。

選挙となると、自民党の候補の名前を知らされる。

自民党候補に家族も一緒に投票しろ、と言うわけである。

投票場では投票の秘密が守られているから、実際に投票する際に自民党以外の候補の名前を書いても良いのだが、日本の会社員にはそれが仲々出来ない。

態度からばれるのではないか、何か仕組みがあって他の候補者に投票したことは必ず掴まれるのではないか、と不安になる。

心配するくらいなら、決められたとおり投票しようと言うことになる。

地方に行くと、各地方ごとにボスがいる。

県会議員、市会議員、町会議員、がそれぞれその上の国会議員の派閥ごとに系列化されている。

中で、町会議員は一番小さな選挙区で活動している。

昔からその地域に住み着き、地域の住民に影響力のある人物である。

言わば、その地域のボス的存在である。

そう言う人は地域住民と日常的に接触し、住民一人一人の樣子も掴んでいる。

狭い生活範囲でお互いに顔見知りで、みんなの意向に反することをするのは良くないことだ。この地域の空気を乱すようなことをできない。みんなの空気に従おうと言う事になるのが、この日本の実情だ。

その空気は首相、大臣、国家議員、県会議員、市会議員、町会議員と順繰りに上から下に降りてきて、地域の住民を包み込む。

国会議員の選挙の場合にも、その町内のボスが自分の派閥の候補者の名前を公言する、あるいは直接、間接的にその候補者に投票するように地域の住民に伝える。

特に、地方の場合、地域のボスの力が強いから、投票場でもボスの目が光っている。投票場は秘密が守られているはずだから、ボスの指定した候補者以外の人間に投票しても良いのだが、地方では確実にそれがばれるという。

民主主義の世界で、国民にとって唯一自分の政治的要求を追求することの出来る選挙権さえ、日本では、地域のボス=権力者=支配者に、与えてしまう。自発的に隷従するのである。



もっとも、選挙に行かない人達も多い。政治に嫌気が差して政治に無関心になるのか(アパシーにおちいる)、投票したい候補者が見つからないこともある。

そして、選挙に行かない人が多いほど、ボスによる選挙支配が上手く行き保守党が勝利することになる。

かつて自民党の党首が、なるべく選挙に来ないでもらいたい、と言った。投票率が低いほど、ボスによる選挙支配が上手く行くのだ。

一体どうしてこう言うことになるのか。

ラ・ボエシは言う。

G「人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分人にだまされる場合が多いのだ。(P034)」

H「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P034)」

I「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P035)」

J「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P043)」

K「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。

だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(雁屋註:西洋の騎士が乗る馬の姿のことであろう)(044)」

L「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P044)

これを読んで、思うことは、1945年の敗戦まで、日本人を支配していた天皇制である。

明治維新の頃の日本人は、福沢諭吉の言葉を借りると、

「我が国の人民は数百年の間、天子があるのを知らず、ただこれを口伝えで知っていただけである。維新の一挙で政治の体裁は数百年前の昔に復したといっても、皇室と人民の間に深い交情(相手に対する親しみの情)がある訳ではない。その天皇と人民の関係は政治上のものだけであり、(中略)新たに皇室を慕う至情をつくり、人民を真の赤子(せきし)のようにしようとしても、今の世の人心と文明が進んだ有り様では非常に難しいことで、殆ど不可能である。(『文明論の概略 第十章』福沢諭吉全集第四巻 一八八頁)」

実際に明治政府は、各県に「人民告諭」を出して、日本には天皇がいると言うことを、人々に教えなければならなかった。

例えば、奥羽人民告諭には

「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまして・・・・・」

などと言っている。

この人民告諭は、天皇のことを一番知っているはずのお膝元の京都でも出された。

今の私達に比べて、当時の日本人は天皇に対する知識がゼロだったのである。

当然天皇を崇拝し、従うなどと言う意識は全くなかった。

象徴天皇制の現在でも、多くの人が天皇を崇拝しているが、明治の始めに、一般民衆が天皇を崇拝するなど、考えられなかった。

一体どうしてこんな違いが生まれたか。

1889年に明治政府が、「大日本帝国憲法」を決めて

「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」

と天皇を絶対権力者とし、

1890年に教育勅語によって、

「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(中略)

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

と命令されると、明治維新前に生まれ育ち、徳川幕府の権力の下に生きていた人達もラ・ボエシの言葉「G」、「H」の言う通りに、天皇の権力の支配を喜んで受け、その子供たち、孫たち、1945年の敗戦以前に生まれた人間は、ラ・ボエシの言葉、「I」、「J」、「K」の言うとおり、習慣として天皇制の軛につながれていたのである。

軍国時代になると、人々は天皇(と天皇を担ぐ政府)に自発的隷従をして、抵抗もせず勇んで兵士となり、死んで行ったのだ。

当時の新聞や雑誌、出版物を読むと寒々として、しまいに恐ろしくなる。

天皇に忠誠を誓う奴隷、自発的隷従者の言葉で満ちあふれているからである。

昭和天皇は敗戦後、戦犯として訴追されることを免れた。天皇服を着て白馬に乗って軍隊を閲兵した大元帥で、日本全軍を率いて敗戦前は具体的に戦争の指示まで出していたのに、突然白衣を着て顕微鏡をのぞく実直な科学者に変身し、実は平和を愛する人間だったいうあっけにとられるようなジョークがまかり通り、人間天皇、象徴天皇として、存在し続けたために、人々が天皇に自発的隷従をする習慣は簡単に消え去らなかった。

自民党の国会議員が「教育勅語を学校で教えるべきだ」などと言ったり、山本太郎議員が、園遊会で天皇に手紙を渡したことを、不敬だなどと騒ぐのも、その習慣がいまだに伝わっているからだろう。

日本の天皇制は、自発的隷従の典型である。

そして、天皇に自発的に隷従する習慣は、いまだに日本人の心理の底流に流れていて、その隷従の習慣を誇りに思う人が少なくないのである。

昭和天皇が亡くなったときの騒ぎは忘れられない。

繁華街の火は消え、祝い事はとりやめ、何事も「自粛、自粛」の言葉に押え付けられた。

テレビのバラエティー番組に、有名なテレビタレントが、なにを勘違いしたのか喪服を着て現れたのを見て私は心底驚いた。

あの時の日本社会を表現するなら、日本人の心理に植え付けられていたがとっくに黄泉の世界に送り込まれていたはずの「自発的隷従」の「習慣」が昭和天皇の死をきっかけに一気に黄泉の世界からこの地上に湧き出した、と言う事になるだろう。

私は天皇制から自由にならない限り、日本は、韓国、中国、台湾を始め、マレーシア、シンガポール、香港、などの東南アジアの国々と真の友好を結ぶことができないとおもう。

戦争責任の話になると、誰が命令したのかというと軍の責任になり、では軍の最高責任者は誰かというと天皇になる。

日本人は、天皇の責任を問うことは出来ない、と言うから、けっきょく末端の戦争責任も問えないことになる。

謝罪するとなると、天皇にまでその謝罪行為が及ぶ。だから、それがいやさに日本は、韓国や中国に謝罪できず、強弁してますます韓国や中国との関係を悪くする一方である。

もっとも現行憲法下天皇に政治的行為は出来ないから、日本の政治の最高責任者である総理大臣が、昭和天皇の分もきちんと謝罪をするべきである。

きちんとした謝罪をしない限り、韓国、中国との、全く不毛な争いはやまないだろう。責任は、百パーセント、日本にある。

日本の権力者たちは誰なのかはっきりしない。

アメリカなら、軍産複合体の指導者達、金融界の大物たち、宗教界の大物たちで有るとはっきり分かるが、日本の場合、我々一般の人間にははっきりしないから困る。

安倍首相は、その権力者たちの意に従って動いているだけだろう。

日本の、自発的隷従は根が深いのである。

では、この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。

ラ・ボエシは書いている。

M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」

N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」

そうなのだ。

問題は次の二つだ。

「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」

「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」

この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。

ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。

O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048))

P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」

Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」

確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。

その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。

だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。

だが、そうするとどうなるか。

周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。

偏屈だと言われる、へそ曲がりだと言われる、自分勝手だと言われる、他の人が我慢しているのにどうしてあなただけ我慢できないのと言われる、変わり者だと言われる、ひねくれていると言われる、政治的に偏向していると言われる、あなたには出来るかも知れないが他の人は出来ないんだよ、自分だけがいい気になるな。

隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。

(上に上げた言葉は、私が実際に色々な機会に言われた言葉である)

他方、隷従を要求している側から見れば、排除するか、痛めつけるか、どちらかを選択するだろう。

隷従を続けて生きて行くか、自由を求めるか、それは個人の意志の問題だ。

自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。



最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。

R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」

最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。

16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。

(ここまで)


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オレンジャーからのメッセージ「正しさの罠」 [アセンション]

オレンジャーからのメッセージ「正しさの罠」



(ここから)

おれはオレンジャー!

君たちは
常に正解を
求めていないか

人生にとって
決まった成功の形があって
その形へ向かって
生きていることが正解

どこかの誰かが
言った世界観に
閉じ込められて
勝手に定義された
答えに向かって
生きていることが正解

でも実際には
そんな正しい生き方なんて
存在はしていない

正しさとは
ある特定のルールや考えに
照らし合わせたときに
合致している状態のこと

ただそれだけのこと

あなたが
正しさを求めれば
求めるほど
あなたらしさから
遠ざかっていく

あなたが強く
正しさを求めたとき
周りとのつながりが
失われ孤立していく

We Are Right

頭文字をとれば「WAR」

そう、戦争は
正しさを主張する人同士が
ぶつかる現象のことだよ

正しさの罠に
はまってはならない

今日はこんなところだ
じや!

(ここまで)

正しさの定義なんてあってないようなものかもしれません。

10年前はこれが正しいと思っていたものが今は違うという

ことがよくあるからです。


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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたの思考は無限に自由なのです・・・」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたの思考は無限に自由なのです・・・」




(ここから)

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えしますね^^

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

あなたの選択が次のあなたの現実になります。

そうですね。

お蕎麦とラーメンととんかつと海鮮丼の選択肢があったとします。

あなたがラーメンを選択すればラーメンを食べるという現実になります。

もしかしたら全部を食べるという選択をするかもしれませんね。

あなたがどうしたいか決めてそれをする・・それが現実となるのです。

あなたは常に選択しています。

小さなことでも選択しているのです。

無意識に選択していることも多いと思います。

無意識・・それは意識しなくても出来る選択です。

それは習慣とも言えます。

習慣になってしまったり、無意識のレベルになってしまうと選択を

変えることが難しくなったりします。

ですから常にあなたが選択していることにフォーカスしていてください。

それが”いま”を生きるということなのです。

”いま”をつねに感じていることが出来れば、”いま”自分が選択

していることにフォーカス出来ます。

そうすればその選択を意識的にすることが出来るのです。

どちらを選びたいか・・それを”いま”決めることが出来ます。


”いま”こちらを意識して選びます・・と決めることが出来れば、

次の現実に関しても納得することが出来ます。

どうしてこんなことになってしまったの?って思うことがなくなります。

これは私がこの時にこの選択をしたからですね・・と思うことが

出来るので、人のせいや環境のせいにすることもなくなります。

だから、自分の現実を自分の好きなものにすることが出来るようになります。

好きに生きて行きたい、自由になりたい、ご機嫌さんな現実を

創造したいと思うならば、ご機嫌さんになれる方をつねに選択すれば

いいだけのことなのです。

ご機嫌さんの方をつねに選んでいけば、ご機嫌さんの現実だけが

続くのです。


とてもシンプルですね。



あなたがいまどの選択をするか?・・それはあなたが決めます。

誰かにこの方が良いよと勧められても、最終的にはあなたが決めたのです。

勧められたから・・という言葉は通用しないのです。

勧められても断ることは出来ます。

勧められてもそれは私の意見とは違いますと選択しないことも

出来るのです。

だから、誰かに何かを勧められたからと言って誰かの責任にすることは

出来ないということです。

あなたは自由なのです。


もしあなたがいま自分は不自由な生活をしていると思っているのならば

それはあなたが不自由になる選択をしているからです。

どうして不自由な生活になるのでしょうか??

そこを考えてください。

不自由な生活になるような選択をする思考になってしまっていませんか?

無意識に不自由な生活になる選択をしていませんか?

・・ということです。


無意識に不自由な選択をする思考・・それは刷り込まれた常識や倫理観や

道徳観や宗教観、価値観などを見直してください。

本当はこうしたいのにそれは常識的ではないという思考をしてしまうと

あなたの現実は自分の好きな現実にはなりません。


あなたの”いま”の選択が、次のあなたの現実になるのです。

右を選ぶか左を選ぶか、まっすぐ行くか、後ろへ下がるか、進まないか・・

選択はたくさんあります。

その選択肢さえもあなたが自由に創っていただいていいのです。

誰かに設定された選択肢の中から選ばなければいけないということも

ありません。


あなたは無限に自由なのです。

あなたの思考は無限に自由なのです。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。

(ここまで)


不自由な生活という点に焦点を絞って考えてみると

果たして、本当にそれが自分の創っている現実なのか?

と、思うこともあるでしょう。

今、アメリカに次いで日本でも問題になっている貧困なんか

そのひとつですね。

生活に困ってない人いれば、ものすごく困っている人もいます。


アシュタールの語ることによると

生活に困っている人も実は自分で選択した結果だということに

なりますが、「ホント?嘘でしょう!」という言葉が返って

来そうな気がします。


でも、よくよく考えてみれば、その人の思考の癖とか言葉の

癖にその原因があるような気がします。

要するに習慣的な考え方で無意識に選択していて、それが

生活に困るような現実を招いていることもあるということです。


この辺りは個々に事情が異なるので一概には言えませんが

各々で考えてみる必要があるのではないでしょうか?

もし、あれば考え方や言葉の癖を変えてみる必要がある

だろうと思います。



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破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:突き抜けましょう・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:突き抜けましょう・・・」


(ここから)


今日の破・常識!



突き抜ける、エネルギーを引かない・・というのは、

あなた自身が自分を信じ

あなたの気持ちだけを考えるということ・・・らしい(笑)


----------------------------------------------------------------------------------------


今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。







「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

突き抜けましょう・・

エネルギーを引かないでください。

これは対立してくださいと言っているのではありません。

あなたがエネルギーを引かなければ対立も起きないのです。

アシュタールは何を言っているんでしょうか?


あなたが何かをしたいと思います。

その時にあなた自身を信じてください。

あなたが揺れると、誰かに何かを言われる現実を

自分で創造するということです。

自分の趣味のお店を開きたいと思います。

その時に、出来るだろうか?無理じゃないかな?

そんなに現実は甘くないよ・・とあなた自身が思ったら

その言葉をそっくりあなたに言ってくれる人が現れるということです。

分かりますか?


もし、あなたが大丈夫だと自分を信じ切ることが出来れば、

誰もあなたに無謀なことはやめなさい

そんなに甘くはないですよ・・と言いません。

反対に、応援するよ・・と言ってくれるのです。

それはあなたのエネルギーが引いていないからです。


エネルギーを引くとはどういうことでしょうか?

もし、あなたが残業を頼まれたとします。

その時、あなたの中でこれを断るとイヤな顔されるなとか

昇進に関わって来るかなとか思っていると

あなたのエネルギーは引いてしまいますので

もっと残業を頼まれることになってしまうのです。

人との交渉(関係)はエネルギー場で決まります。

あなたが引けば、相手は押してきます。

それはある意味テレパシーで会話しているからです。

これは断りずらいな・・と思っていると

その気持ちが相手に伝わり

もうちょっと言えばOKするなと思うのです。

相手はOKしてほしいのですから、ここは押してきます。

そうなれば、あなたはOKせざるを得なくなるのです。

これがエネルギーを引くということです。

断るなら、あなた自身が揺れないようにしてください。

不安で揺れてしまうと、エネルギーが引いてしまいます。

あなたが今日は残業はしたくないと思うなら

そこをしっかりと自分で決めてください。

損得を考えるのではなく、自分はどうしたいのかを

考えれば出来ると思います。

エネルギーを引かないで断ると

相手もイヤな気にはならないのです。

エネルギーを引きながら断るから

対立のエネルギーになってしまって

相手も不快になってしまうのです。

難しいですか?


私は残業はしません・・と軽く言えばいいだけなのに

自分の中が損得や不安などで揺れていると言い方が強く

重くなってしまうということです。

何があっても一ミリも私は譲歩しませんよ

絶対に断ります・・という強固な対立のエネルギーを

相手にぶつけてしまうことになるのです。

その重いエネルギーをぶつけられると

相手も強固になってあなたに

また重い対立のエネルギーを返してくることになって

二人の関係も気持ちの良くないものとなってしまいます。

あなたの中が揺れていなければ、ごめんなさい

今日は帰ります・・とサラッと何のエネルギーを

乗せることなく言うことが出来るので

相手もそうですかとサラッと答えてくれるのです。

どうやって断ろう・・と悩んでも仕方ありません。

どうやって断ろうと思っている時点で

あなたのエネルギーは引いてしまっていますので

気持ちよく断ることが出来ないのです。

どうやって断ろうと悩む前に、あなた自身が突き抜けてください。

ごちゃごちゃ考えるところから突き抜けて

断るということをしっかりと決めることです。

そうすれば、どうやって断ろうなどという考えはなくなり

今日は帰りますという言葉だけが出るようになります。


突き抜ける、エネルギーを引かない・・というのは、

あなた自身が自分を信じ

あなたの気持ちだけを考えるということです。

そうすれば、あなたが我慢しなければいけないこともなくなります。

そして、自分がやりたいと思っていることに

反対の意見を言われることもなくなります。

反対の意見ではなく、それを成し遂げるために

必要な積極的なアドバイスをいただけるようになります。

突き抜けましょう・・・


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール! 


(ここまで)

これはとても大事なことですね。

会社で残業を上司に頼まれるとやはり嫌ですよね。

まあ、残業手当をもらえるからやりますというなら

話は別ですが、早く帰りたいのに・・・

と思っているなら、ほかに理由がなければ断りましょう。

そのときに、ただ嫌だから断るというのでは手がないので

「どうしても受けられない用事や約束事」を理由にすると

いいだろうと思います。

それが2,3回続くようだと、上司も頼まなくなります。

これを理由もつけずにできませんと断ると、必ず

「君は会社のことも考えないのか」と言われます。

それが2,3回続くと、上司はあきらめるのではなく

人事評価を下げ降格や給与のダウンを迫るでしょう。

断り方は人それぞれですので、自分で考えてみると

もっといい案が出てくると思います。




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経団連に大ブーイング 強く要求した消費増税で景気悪化しお手上げ状態 [政治・経済]

経団連に大ブーイング 強く要求した消費増税で景気悪化しお手上げ状態


(ここから)


「自分で自分のクビを絞めただけじゃないか」「無能経営者をとっとと追放しろ」――。
日銀が13日に公表した12月の全国企業短期経済観測調査(短観)を受け、サラリーマン
らからこんな声が上がっている。

 短観では、企業の景況感を示す業況判断指数(DI)が大企業製造業でゼロとなり、前回
9月調査(プラス5)から5ポイント低下。悪化は4四半期連続で、大企業非製造業のDI
も前回調査から1ポイント低下し、2期連続の悪化となった。

 財務省と内閣府が公表した2019年10~12月期の法人企業景気予測調査でも、大企
業全産業の景況判断指数(BSI)は2四半期ぶりのマイナスとなる6・2。製造業、非製
造業とも悪化し、下落幅は熊本地震が発生した16年4~6月期のマイナス7・9以来の大
きさだった。

■消費増税を提言しながら、実行されたらお手上げ

 いずれの調査も今の日本経済がメタメタだということを示しているワケだが、マイナスの
要因は何といっても10月からの消費税10%への引き上げ。ここで忘れてはいけないのは、
消費増税を強く主張していた張本人はほかならぬ大企業自身だったということだ。

 12年5月、経団連は〈成長戦略の実行と財政再建の断行を求める〉と題する政策提言を
発表。そこには、消費税率を25年までに19%に引き上げる一方、社会保障給付の自然増
を毎年2000億円抑制することが盛り込まれ、〈残された最後の課題は、「実行」のみで
ある〉などと、当時の民主党政権に強く要求。日本経済が成長するには消費増税が欠かせな
い――と主張し、実際、安倍政権になって実行された途端、「やばい! 不況になっちゃっ
た!」と慌てているワケだ。

 財政再建も程遠い。今や国と地方を合わせた借金は1120兆円余りと膨れ上がっている。
この状況に対し、ネットなどでは「経団連は責任を取れ!」「内部留保をため込んだだけの
無能集団が」などと怒りの声が続出しているのだ。

 経済ジャーナリストの荻原博子氏がこう言う。

「今回の消費増税については、大企業も決して一枚岩ではありませんでした。とはいえ多く
の大企業が求めていた増税を実行したら、こんな酷い状況になった。政府も政府で、増税し
ながら経済対策と称して26兆円も大盤振る舞いするというのですから一体、何のために増
税したのか分かりません。大企業のクビが絞まるはずです」

 日本経済回復のカギは経団連の解散だ。

(ここまで)

よもやこんなことになるとは・・・。

と経団連の大御所たちは慌てていて、各々心の中でつぶやいているでしょう。

ましてや増税を主張した大企業自身がマイナスなのですから・・・。


前回8%に上げたときには5%から3%上乗せされたわけだが、景況が悪化したのは

数か月から半年くらいで、その後持ち直したことから、今回の8%から2%の上乗せ

でも、影響は少ないだろうと予想していたと思います。

しかし、残念ながらたった2%と言っても予想以上の景気悪化となっています。

8%という数字は計算が面倒で、どのくらい上乗せされているかを肌身で感じる

ことができませんが、10%は単純に1割なので感覚としてわかりやすいものです。

そのため、8%のときと違ってその影響の大きさをひしひしと感じているのでしょう。


「なんで10%も税金払わないといけないの?」

という思いが正直なところだろうと思います。

経団連の方々はそうした心理を軽く見ていたのだろうと思います。

今からでも遅くありません。消費税を廃止するか5%に戻すべきです。

そうすれば経済は上向くと思います。


結局は「自分で自分の首を絞めただけ」というのが当たり前の事実です。




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