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薬を飲まない薬剤師が多い理由知ってますか? [健康・病気]

薬を飲まない薬剤師が多い理由知ってますか?


日本人は本当に薬好きだと思います。
多くの人が体調不良で病院を訪れいっぱい薬をもらい
それを後生大事に死ぬまで飲み続けています。
何の疑問も感じることなく「医者が飲みなさい」と言うから
という理由だけで飲んでいます。

私なんかはほとんど飲みません。
先日も風邪を引いてしまいましたが、一切のまず自力で
治しました。

だから、本当は薬なんか要らないものと思います。
ただし、本当にどうしようもない場合は使いますが
それでも、体調が戻ればきっぱりと止めます。



(ここから)


薬は百害あって一利なしということは、実は医者や薬剤師の中では有名です。実際、長期間なんの薬も服用していない人は、本当に病気にならない体になっています。

東洋医学のお医者さんと話していた時に衝撃的なことを聞きました。

そのお医者さんがきっぱりと、

「ええ、そうなんですよ。私のところにくる製薬会社の営業マンさんや研究員の方とか何人か診ているんですが、彼らは家族皆薬を飲まない。って言っていましたよ。」



本やネットなどで、そんな話を耳にすることありましたが、身近でもやっぱりあることに驚きました。

考えてみれば、東洋医学の医療を受けている時点でその社員は薬を信用していないという証拠ですが、よく無責任に薬を売る仕事ができるな!と思う話です。

それから実際どれくらいの関係者が薬に対して拒絶しているのか興味を持ったので、いろいろ調べたら出てくること出てくること。薬に携わる人ほどその害のことを知っており薬を飲まない人が多いようですね。

週刊ポストから一部引用****************************

 医学界で話題を呼んだ『薬剤師は薬を飲まない』(廣済堂出版刊)の著者で薬剤師、そして栄養学博士でもある宇多川久美子氏は次のようにいう。

「私自身、35歳から40歳過ぎまで頭痛や肩こりに悩まされ、毎日10数種類の薬を飲んでいました。しかし、あるとき、すべての薬を手放して生活習慣を改善したところ、薬を飲まなくとも症状が軽減されていったのです」

そもそも“薬が効く”ということ自体がとても怖いことだと宇多川氏はいう。

「たとえば、火事が起きたら消防車を呼びますが、消防車は火事の家だけに放水します。しかし、薬は体の不調なところにだけピンポイントで作用するわけではありません。飲み下された薬は胃で消化され、全身を駆け巡ります。言うなれば、住宅街をくまなく回り、火事でない家にも放水して屋根や壁を痛めつけているようなものです。そうした薬の本当のメカニズムを知っているからこそ、私は薬を飲まないのです」

宇多川氏が「飲んではいけない」と唱える理由を挙げてもらった。

体調が悪いときに飲むものなのだから、体に悪いはずがない―薬についてそう思う人も多いだろう。しかし、宇多川氏は「薬は体にとって毒」だと断言する。

「薬は自然界には存在しない合成品です。薬には、石油から合成して作られたものが多くあります。つまり、元をたどればプラスチックと同じ成分から作られているのです。そうした合成品は体にとって異物。効き目があるところにはよいですが、全く無関係のところに行き渡れば重い副作用を及ぼす毒になるのです」(宇多川氏)

(引用終了)**********

いや~なんとも強烈な告白です。薬のプロ中のプロである薬剤師が言っているんですから、リアルすぎです。薬は石油からできてる毒物。怖!


薬を作るお金持ちが薬を避けて稼いでいるおかしな世の中の仕組み

医者と薬の関係は切り離せないですが、医者である崎谷医師もはっきり「99.999%の病気は現代医療で治す事ができません」と断言していました。(詳しくはこちら なかじま きよはるさんの部屋さんのサイトより)

もともと大富豪のロックフェラー財団が、薬では病気を治せないと分かっているが、薬を使う治療をする医療システムと産業を作り上げたのです。

「世界医薬産業の犯罪」(著者:ハリス リューシュ)から引用   **********

しかし(ロックフェラー家の)父親も息子も主治医としていたのはホメオパシーの医師で、その長寿と健康は合成医薬品を決して使わなかったおかげだと考えていた、、、

(中略)

ロックフェラー父子は、現代医学の発展のために多額の資金を提供しつづける一方で、現代医学に対して基本的に不信感を持っており、ホメオパシー医師H.F.ビガー博士を主治医としつづけた。その言行のギャップに戸惑わされた人が少なからずいた、、、

(引用終了)***********************


当然、そこには利権と金だけが絡む。実際には治せないって分かってるのに、石油でできた毒薬の開発に夢中になって儲けるだけってことなんですよね。


(ここまで)



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小さなウソを容認すると起こること [政治・経済]

小さなウソを容認すると起こること


これは秀逸な記事ですね。

この「桜を見る会」のニュースやワイドニュースが毎日論じられていますが

もうアホらしくて見てません。

まあ、ときおりその簡単な経緯を知る程度ですが、誰が見てもおかしいはず

なのに、5000円で出来たという政府の答弁が人を食ってます。

日本の政治レベルはこの程度なんですね。国民もおそらくそうでしょう。

それよりもいつも嘘の答弁を繰り返し、そのうち国民はそんなこと忘れて

しまうから、としばらくするとだんまりを決め込む安倍総理の方が問題です。

野党も野党でまるで腰砕け追及でお話になりません。

ある意味、野党がやっているのは最初から結果が出ているガス抜き演技

だということですね。



(ここから)


小田嶋 隆
コラムニスト
2019年11月22日

「ニューオータニの宴会場で800人の立食パーティーをやって、一人アタマ5000円で済むのか」という話題が、この1週間、様々な場所で行ったり来たりしている。

 バカな話だと思う。

 私の感覚では、無理に決まっている。これが無理でないのだとすると、この世界に「価格」というスタンダードがあること自体がおとぎ話になってしまう。

 どんなに優秀な幹事を立てたところで、きょうび都内の一流ホテルで料理と飲み物を出すパーティーが、一人アタマ1万円以下の会費でペイできる道理はない。聞けば、当日は有名寿司店の寿司がふるまわれたというし、名前の知れたシャンソン歌手が歌う場面もあったのだそうだ。だとすれば、なおのこと5000円という会費はあり得ない。完全に不可能だとまでは断言しないが、近所のコンビニで売っている120円のシュークリームひとつで丸1週間食いつなぐことが困難であるのと同じほどにはバカげた話だと思う。

 仮にこの会費でニューオータニのパーティーに誘われたら、私は参加しない。会費の安いパーティーには、若い頃からひどい目に遭っている。たしか高校2年生の時だったか、100平米の雀荘をハコにパー券を300枚売りさばくタイプの暴走族主催のディスコパーティーに引っかかったことがある。あれはキツい経験だった。集結した面々がレディースとツッパリ坊限定だった点もさることながら、狭い雀荘の会場に入るためには、階段越しに

 「お前どこのもんだ?」

 てな調子でスゴんでいるチンピラ諸氏の面通しを突破しなければならなかった。

 私にはその関門の先に待っている不機嫌なレディースを待望する理由がなかった。それ以上に、階段の前に陣取っているテカテカのリーゼントに対峙するだけの度胸を持っていなかった。だから、1500円のガリ版刷りの薄紅色のパー券をその場に捨てて、静かに板橋駅に引き返した。いまでも賢明な判断だったと思っている。

 もう少し年をとって、ほんの少しだけ賢くなった頃にも、ネットワークビジネスのカモ誘引会場にまんまと間抜け面を晒したことがあった。あの時も、自分の価値観の浅はかさを心から呪ったものだった。だから、このトシになって、いまさら安いパーティーはお断りだ。ごめんこうむる。まあ、高いパーティーにしたところで願い下げではあるのだが。

 話を整理しよう。

 ニューオータニで5000円のパーティーが可能だろうかなどという話は、本来なら大の大人が大真面目に議論すべき話題ではない。そういうことだ。

 「ウソに決まってるだろ」
 という決まり文句で一蹴すべき案件だ。

 とはいえ、読者の中には
 「ウソに決まってるじゃないか」

 だけでは納得しない半端者が必ず含まれている。

 そういう少数者のために、外堀を埋める意味で、「ニューオータニ5000円パーティー」の開催不可能性について、以下、やや子細に検討してみる。

 仮に、会費5000円でパーティーを開いたことが事実だったのだとすると、ホテル側に支払った実際の金額と、パーティー参加者から徴収した会費の総額との間に「差額」が生じる。と、当然、この「差額」ないし「損失」を誰かが補填しなければならない。そうでないと話が前に進まない。

この場合、差額分を支出していたのが安倍さんの後援会事務所だったのだとすると、相当にマズい。支出をきちんと計上していなかったということにでもなれば、いきなり政治資金規正法違反になる。この先、後援会が帳簿の体裁を整えるつもりでいるのだとしても、差額として支出した金額をどういう名目で処理するのかは、会計担当者にとって、厳しい試練になるはずだ。いったいどうやって申し開きをするつもりなのだろう。

 差額の出どころが、「桜を見る会」のための予算であった場合、これはこれでまた別のスキャンダルになる。公の税金を私的なパーティーのために費消していたわけだから、「公私混同」と言われても仕方がない。おそらく、会計的にも問題が残るはずだ。

 以上の事例とはまったく別に、会費の差額のために官房機密費が充当されていたのだとしても、それはそれで大変によろしくない。このケースが一番ヤバいかもしれない。官房の「機密」が、首相個人の後援会の慰安であるのだとしたら、国家機密そのものが私物化されていたことになる。だとすれば、この国はもはや未開の蛮国にすぎない。

 とにかく、5000円という破格の会費でパーティーを開催することで選挙区の支援者を慰撫していたのであれば、安倍さんは、無事では済まない。

 最後の可能性として、ホテルニューオータニ側が、会費5000円でのパーティー開催という破格の条件をそのまま飲み込んだ可能性も理屈の上では残されている。

 その場合、
 「ホテル側はどうしてそんな非常識な条件をのんだのか」

 という疑問に答えなければならない。

 で、その答えのひとつとして、
 「同じクライアント(安倍首相ないしは日本政府)による別の取引機会において、当面の損失を補ってあまりある利益が期待できるから」

 というプロットがある。

 なるほど、ありそうな話だ。

 実際、去る10月23日、首相夫妻の主催による天皇皇后両陛下のご即位を祝う晩餐会が、各国の首脳を招いた中で盛大に開催されたわけなのだが、その会場は、実に紀尾井町にあるホテルニューオータニだった。

 これは偶然だろうか。

 ホテル側からしてみれば、天皇即位のための晩餐会の会場として選ばれる栄誉と実益の大きさに比べてみれば、800人の立食パーティーの会費をどれだけ値引きしたところでものの数ではない。

 あるいは、安倍さんの側は、ここのところの権威勾配(というのか「威圧」)につけこむカタチで、不当なディスカウントを迫ったのであろうか。というよりも、首相サイドがあからさまに強要するまでもなく、値引きは、ごく自然に受益者から権力者に向けて「提供」されていたのかもしれない。

 してみると、これは、権力なり政府の権威なりを背景とした、「令和の代官&越後屋ストーリー」になる。

 この場合も、政府から支払われることになる晩餐会の巨額支出を、自分の後援会事務所主催のパーティー費用とバーターにして値引き交渉をしていたのであれば、より巨大な公私混同案件と見なされるはずだし、直接的に権力の威圧で値引きを勝ち取っていたのだとしても、それはそれでまた政治家としての振る舞い方を批判される理由になる。どっちにしても無事では済まない。

 もちろん、私がここで並べ立てている臆測は、取材に基づくファクトや根拠があって言っていることではない。

 「そう考えればそう考えることもできる」というだけの、言ってみれば言葉のアヤみたいなものだ。

 ただ、
 「ニューオータニによる会費5000円でのパーティー会場提供が事実であったとするなら」

 という条件から考えると、それこそ、バーター案件としてご即位奉祝の晩餐会でも持ってこないと話が合わないぞということを言ったまでのことだ。

 思うに、最重要な問題は、これほどまでにあからさまなウソごまかしであっても、首相の口から出た言葉だからという理由で、最大限に尊重せねばならなくなっているわが国のメディアの奴隷根性だ。

 メディア側は、最後の最後まで真実である可能性を勘案した上で、首相の発言を取り扱わなければならないと思い込んでいるわけで、結局のところそれほどまでに、ファクトチェックの基準を政府の側に譲り渡してしまっている。

 朝日新聞のデジタル版(asahi.com)が、11月20日11時38分に配信のweb版で
《安倍首相、招待者選定「意見言うことあった」一転認める》

 という記事を配信している。

 紙の方の新聞では、21日付の朝刊で
 《首相、接待関与認める 桜を見る会 昭恵氏も推薦》

 という見出しのもと、ほぼ同内容の記事を掲載している。

 気になるのは、時間的により遅い(つまり最新の)段階で制作されている紙版において、首相の「答弁の修正」(←個人的には「虚偽答弁」の線でたたかうべきだと思っている)を責めるニュアンスが弱まっている点だ。

 なお、現時点(11月21日17:00頃)では、web版の方でも、紙版の朝刊とほぼ同じ内容に修正した11月21日05:00更新分の記事が掲載されている。

 紙版、web版(第一報)ともに、まずリードの部分で

 《国の税金を使い、首相が主催する「桜を見る会」をめぐり、安倍晋三首相は20日午前の参院本会議で、招待者選定について「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」と自らの関与を認めた。会前夜の夕食会は、自らの後援会が主催したことも明らかにした。》

 と、首相が国会答弁の中で招待者選定への関与を認めた発言を紹介しているのだが、本文に入ると文章のトーンが変わる。

 web版(の第一報である20日11:38配信分)が

 《―略― 首相は8日の参院予算委員会では「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と説明していたが、修正した。 ―略―》

 と端的に首相が発言を修正した旨を伝えているのに対して、紙版(ならびに21日05:00更新の記事)では、

 《―略― 首相は8日の参院予算委員会で「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と述べていた。20日は「私は、内閣官房や内閣府が行う最終的な取りまとめプロセスには一切関与していない」と軌道修正。「先日の答弁が虚偽だったとの指摘はあたらない」とも述べた。 ―略―》

 と、8日の発言が虚偽答弁にはあたらないという首相の発言を紹介するフォローの一文が書き加えられている。

 首相が、虚偽答弁をしたのかどうかは、今後、与野党ならびにメディアを含めた議論の中で争点になる部分なのだろう。

 そういう意味では、新聞の見出しで、いきなり
 「虚偽答弁」

 と、決めつけるのはむずかしいことなのかもしれない。

 とはいえ、首相は、8日の国会答弁で
 「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」

 と断言している。

 でもって、20日には、前言を翻して
 「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」

 と言っている。

 要するに
 「意見を言うことはあったが、そのことがすなわち招待者の取りまとめに関与したことにはならない」

 という理屈なのかもしれないが、そんなことが通用するものだろうか。

 こういう露骨な言い逃れを
 「発言を修正した」

 という伝え方で記事にして、朝日新聞の中の人たちは、そんなことで新聞の役割をまっとうできると考えているのだろうか。

 単純な話、首相が国会答弁を修正したのであれば、メディアの側の人間は、修正する前の発言と、修正後の発言の間の整合性を執拗に追及する役割を果たさなければならないはずだ。

 「つまり8日の答弁は虚偽だったということですか?」
 「虚偽ではないのだとすると、事実誤認をしていたということですか?」
 「事実誤認をそのまま口にしていたのだとして、どうしてそのような事実誤認をしていたのか、その間の事情を説明してください」
 「勘違いや言い間違いなら、どうして8日の答弁で間違った事実を述べたのかについても教えてください」

 と、いくらでもツッコミどころはあるはずだ。

 そこを
 「首相が答弁を修正しました」

 という記事を書いて、はいおしまいにするのだったら、小学生の学級新聞と同じではないか。

 「修正しました」
 「あ、そうですか」

 では、メディアの役割を果たしたことにはならない。

 ただの政府広報だ。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00045/?n_cid=nbponb_twbn


(ここまで)



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オレンジャーからのメッセージ「周りを笑顔にする」 [アセンション]

オレンジャーからのメッセージ「周りを笑顔にする」


(ここから)


おれはオレンジャー!

あなたの周りにいる
あなたの大切な人は
よく笑っているか?

その大切な人を
笑顔にするために
あなたは何が
できるだろうか?

自分を笑顔に
することは
とても大切なこと

でも自分にばかり
意識を向けていると
世界がどんどん狭く
なっていく

周りに意識を向けて
自分ができることを
精一杯やっていれば
自ずと周りが明るく
なっていく

周りの光に照らされて
あなた自身も
きがつけば
自然と笑顔になっている

あなたが
天から与えられた
ギフト(才能)によって
周りを輝かせる

周りが輝くことで
あなたも輝く

そんな笑顔が
世界中に溢れたら
きっとこの世界は
もっと素敵になるよ

今日はこんなところだ
じや!


(ここまで)


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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:誰かも一緒につまらなくしちゃいたい症候群??」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:誰かも一緒につまらなくしちゃいたい症候群??」



(ここから)


「大人になるとツライことばかりなんて、若い人には言わないほうがいい」
漫画作者語る“社会人の楽しさ”


私も言われたぁ~~・・若いころ・・

みんな、楽しいのは今のうちよ~~って!!

大人になったら大変なこといっぱいあってしんどいなんだから、

今のうちに楽しんだ方が良いよ~って。

このコラムにも書いていたけど、私、若いころ何も楽しくなかったのです。

学校に行くのがすごくイヤだったし、家でもあれもダメ、これもダメって

言われてたから、もう毎日がイヤで仕方なかったのに、これ以上つまらない

ことが増えるなら、大人になんてなりたくないって心底思ってましたよ。



そしてね、私も言ってた(苦笑)

あんなに言われてイヤだったのにねぇ~~・・・

楽しそうにしてる学生の人たちに・・社会人になったら大変よ~って。

結婚前の楽しそうな二人に向かって(面と向かってはさすがに

言わなかったけど)今のうちが花よ~~な~んって密かに

心の中で言ってた(意地悪ぅ~)


私、その頃楽しくなかったんだねぇ~~って今になって思いますよ。

きっと自分がつまらない生き方をしてたから、誰かも一緒につまらなく

しちゃいたい症候群??


今はね、メチャメチャ毎日が楽しいから、大人って楽しいよぉ~~

って心の底から言えちゃう(笑)


自分が楽しくないと、楽しくしている人に何やかんや言いたく

なっちゃんだよねぇ~・・^0^;


子ども達に・・大人ってメチャメチャ楽しいよ~~って言える大人で

いたいと思う今日この頃・・・・のミナミなのでしたぁ~~^0^





では、今日のアシュタールからのメッセージをお伝えしますね^^



「こんにちは こうしてお話し出来ることに感謝します。

大人も考え方ひとつで楽しくなるのです。

でも、大人も、その前の大人たちから、大人は楽しくないものだと

教え込まれてしまったので、楽しくないと思い込んでしまっているのです。


この連鎖が続いているのです。

大人は楽しくない、大人になったら楽しくない・・と少しずつまわりの

大人たちから刷り込まれて行ってしまったので、楽しくない大人に

自分でなってしまうのです。


まわりの大人たちが楽しんでいて、言葉で大人って楽しいよって言わなくても

楽しいエネルギーが伝わってくると、大人って楽しいんだと思うことが

出来るから、大人になりたいとも思うのです。

自分も大人になってもっと楽しく自由にいろんなことをしたいと

思うのです。


子ども達にイキイキとしてほしいと思うならば、大人がイキイキして

ください。

大人がツラそうにしていたら、子どもたちは大人になりたくないと

思ってしまいます。

そして、ツライ大人と言う現実を創造してしまうのです。


大人って何でしょうか?

いろいろなことをあきらめ、常識と言うくさりにグルグル巻きになって

しまうのが大人になるということですか?

あなた達は大人はそういうものだ、そうであらねばならないと思い込んで

しまっています。

何か常識から外れた?常識ではムリだと思われていることをしようとすると

大人になりなさい・・と止められます。

それはあきらめなさいということなのです。


あきらめてしまったら、何も出来ません。

そして、何をしても楽しくはないのです。

出来ないと最初から思うのが大人になるということではありません。


たくさんの知識を得て、その知識を使って自分のしたいことを

どんどん挑戦していってください。

そして、その姿を見せてあげてください。

そうすれば、子どもたちもキラキラと輝きはじめます。

大人になるとつまらなくなる・・と思い込むと、子どもは輝けません。

何も希望を持つことが出来なくなり、大人になどなりたくないと

思ってしまいます。


子ども達に覇気がないというのは、大人に覇気がないからです。

子ども達が希望を持っていないという前に、大人が楽しんで輝いて

ください。

大人になったら、こんなに楽しいことがたくさん出来るんだよと

教えてあげてください。


大人のみなさん、人生あきらめないでください。

これが現実なんだよ・・などとあきらめた人生を子どもたちに見せないで

楽しんでいる姿を見せてあげてください。

そうすれば、次の大人たちも子ども達に大人は楽しいよと伝えることが

出来ます。

そうなれば、楽しい社会を創って行く事が出来ます。


大人がつまらなそうな社会では、子どもたちもまたつまらない社会を

創る大人になります。

そのような連鎖を断ち切って、生きるのは楽しいと思う連鎖にしてください。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。


(ここまで)


私も子供の頃より今の方が数段楽しいです。

と言っても、田舎に戻って来てからですが・・・。

やはり、それは他人のことが気にならなくなったからだろうと思います。

自分はどうしたいのか?

というのが先にあり、そして、その次は自分は自分、他人は他人と

割り切れる考え方です。

これが出来るようになると自然にいろいろなことが楽しめるようになります。

それまでは他人の目を気にしていて、こう思われたり見られたりするのが

嫌だから、何々をしない、あるいは冒険をしないという気持ちになります。

でも、気にならなくなると心理的な自由と余裕が生まれてきます。

それが楽しめる心につながっていきます。

大人にはそうした考え方を身につけられる選択の自由があると思います。

こどもはそうでないですね。

自由でいたいのに周りの大人がそれを許さないからです。

「大人になるとツラいよ」という言葉は案外子供が自由でいるのがうらやましい

ものだから、自分に対して言っている言葉をそのまま子供に投げて言っているの

かもしれないですね。






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破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:学校教育と学歴・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:学校教育と学歴・・・」


(ここから)


今日の破・常識!



学校教育と学歴を混同しないで。

学校教育とあなた達が言っている学歴は違うもの・・・らしい(笑)


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今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。






「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

いまのあなた達の社会の中での学校教育に関しては、

私は必要ないものだと思います。

学校教育は、あなた達を没個性にするために

創られたシステムですから。

教えられている内容も真実から遠いものばかりです。

ですが、ここで話題になっているのは学歴ですね。

学校教育と学歴を混同しないでくださいね。

学校教育とあなた達が言っている学歴は違うものです。


今日は学歴についてお話ししたいと思います。

学歴は必要か・・というご質問に関しては、

それが自信になるならば、

必要だと、お答えしたいと思います。

あなた達はそれこそ学校教育でセルフイメージを

とても低いものにされてしまっています。

ですから、自分を信じる(自信を持つ)ことが難しいのです。

だから、何か自信が持てるものが必要となるのです。

その中で一番わかりやすいのが学歴だということです。

セルフイメージが低くなると

自分で自分を認めることが出来なくなりますので、

誰か他の人から認められたいという気持ちが強くなります。

自信が持てればなんでもいいのです。

ヨーヨーがとても上手でも、それで自信が出来ればいいのです。

でも、何かの特技よりも、一番手っ取り早く

世間から認められやすいのが学歴だということです。

学歴を見せる(知らせる)だけで、時代劇に出てくる印籠のように

みんなが一目置いてくれるので、とても使いやすいのです。

そして、学歴に自信があることで、自分にも自信ができます。

自分は学歴を持っている(その学歴を手にすることが出来た)のだから

他に何をやっても出来るんだ・・という思考になるのです。

だから、堂々としていられます。

そして、堂々としていられるので、周りからも魅力的に見えるのです。

それが、学歴は浮き輪のようなものだという事なのです。

(反対に、学歴を自分だと思ってしまうと、魅力はなくなってしまいます。

浮き輪を使うのではなく、浮き輪が自分だと

思ってしまうとまるで話は変わってきます)

そういう意味では、学歴は自信をつける

ひとつの手段として有効だとは思います。

ただ、自信をつけるだけのために

いまを我慢して学歴だけを求める・・

ということを私はおすすめしません。

学歴ではなく、ご自分の得意とすることで

自信を持っていただければと思います。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール! 


(ここまで)


学歴と言ってもさまざまです。

中学校の義務教育課程だけで終わった人と高校や大学を出た人と学歴は

異なるのは当然ですが、アメリカのように有名大学の博士課程を何個も

卒業した人との違いもあります。


学校で何を学ぶかですが、いくら学科教育を受けても知識だけで終わる

人と、その中から自分なりの勉強方法を習得した人との違いは大きいです。

勉強方法というのは試験でいい点を取るだけが目的ではなく、どうしたら

その知識を自分のものにして活かすことができるかを習得するということ

です。

それが出来た人は社会に出てからも成功します。

また、大成功を収めなくとも独力で道を切り開くやり方を持っている人です。

何か問題があっても過去の事例を参考に新たな解決策を探し出せる人でも

あります。

本当の教育とは知識ではなく、その得た知識を用いて自分なりの対処方法を

見いだせる考え方ややり方を教えることです。

そういう人はどんな学歴であっても通用します。

かっての総理大臣田中角栄は中学校卒だったと思います。

でも、かれは自分で勉強し世間に通用する学力を独力で身に着けた人でも

ありました。今、そうした人は日本にどれだけいることでしょうか?





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