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小さなウソを容認すると起こること [政治・経済]

小さなウソを容認すると起こること


これは秀逸な記事ですね。

この「桜を見る会」のニュースやワイドニュースが毎日論じられていますが

もうアホらしくて見てません。

まあ、ときおりその簡単な経緯を知る程度ですが、誰が見てもおかしいはず

なのに、5000円で出来たという政府の答弁が人を食ってます。

日本の政治レベルはこの程度なんですね。国民もおそらくそうでしょう。

それよりもいつも嘘の答弁を繰り返し、そのうち国民はそんなこと忘れて

しまうから、としばらくするとだんまりを決め込む安倍総理の方が問題です。

野党も野党でまるで腰砕け追及でお話になりません。

ある意味、野党がやっているのは最初から結果が出ているガス抜き演技

だということですね。



(ここから)


小田嶋 隆
コラムニスト
2019年11月22日

「ニューオータニの宴会場で800人の立食パーティーをやって、一人アタマ5000円で済むのか」という話題が、この1週間、様々な場所で行ったり来たりしている。

 バカな話だと思う。

 私の感覚では、無理に決まっている。これが無理でないのだとすると、この世界に「価格」というスタンダードがあること自体がおとぎ話になってしまう。

 どんなに優秀な幹事を立てたところで、きょうび都内の一流ホテルで料理と飲み物を出すパーティーが、一人アタマ1万円以下の会費でペイできる道理はない。聞けば、当日は有名寿司店の寿司がふるまわれたというし、名前の知れたシャンソン歌手が歌う場面もあったのだそうだ。だとすれば、なおのこと5000円という会費はあり得ない。完全に不可能だとまでは断言しないが、近所のコンビニで売っている120円のシュークリームひとつで丸1週間食いつなぐことが困難であるのと同じほどにはバカげた話だと思う。

 仮にこの会費でニューオータニのパーティーに誘われたら、私は参加しない。会費の安いパーティーには、若い頃からひどい目に遭っている。たしか高校2年生の時だったか、100平米の雀荘をハコにパー券を300枚売りさばくタイプの暴走族主催のディスコパーティーに引っかかったことがある。あれはキツい経験だった。集結した面々がレディースとツッパリ坊限定だった点もさることながら、狭い雀荘の会場に入るためには、階段越しに

 「お前どこのもんだ?」

 てな調子でスゴんでいるチンピラ諸氏の面通しを突破しなければならなかった。

 私にはその関門の先に待っている不機嫌なレディースを待望する理由がなかった。それ以上に、階段の前に陣取っているテカテカのリーゼントに対峙するだけの度胸を持っていなかった。だから、1500円のガリ版刷りの薄紅色のパー券をその場に捨てて、静かに板橋駅に引き返した。いまでも賢明な判断だったと思っている。

 もう少し年をとって、ほんの少しだけ賢くなった頃にも、ネットワークビジネスのカモ誘引会場にまんまと間抜け面を晒したことがあった。あの時も、自分の価値観の浅はかさを心から呪ったものだった。だから、このトシになって、いまさら安いパーティーはお断りだ。ごめんこうむる。まあ、高いパーティーにしたところで願い下げではあるのだが。

 話を整理しよう。

 ニューオータニで5000円のパーティーが可能だろうかなどという話は、本来なら大の大人が大真面目に議論すべき話題ではない。そういうことだ。

 「ウソに決まってるだろ」
 という決まり文句で一蹴すべき案件だ。

 とはいえ、読者の中には
 「ウソに決まってるじゃないか」

 だけでは納得しない半端者が必ず含まれている。

 そういう少数者のために、外堀を埋める意味で、「ニューオータニ5000円パーティー」の開催不可能性について、以下、やや子細に検討してみる。

 仮に、会費5000円でパーティーを開いたことが事実だったのだとすると、ホテル側に支払った実際の金額と、パーティー参加者から徴収した会費の総額との間に「差額」が生じる。と、当然、この「差額」ないし「損失」を誰かが補填しなければならない。そうでないと話が前に進まない。

この場合、差額分を支出していたのが安倍さんの後援会事務所だったのだとすると、相当にマズい。支出をきちんと計上していなかったということにでもなれば、いきなり政治資金規正法違反になる。この先、後援会が帳簿の体裁を整えるつもりでいるのだとしても、差額として支出した金額をどういう名目で処理するのかは、会計担当者にとって、厳しい試練になるはずだ。いったいどうやって申し開きをするつもりなのだろう。

 差額の出どころが、「桜を見る会」のための予算であった場合、これはこれでまた別のスキャンダルになる。公の税金を私的なパーティーのために費消していたわけだから、「公私混同」と言われても仕方がない。おそらく、会計的にも問題が残るはずだ。

 以上の事例とはまったく別に、会費の差額のために官房機密費が充当されていたのだとしても、それはそれで大変によろしくない。このケースが一番ヤバいかもしれない。官房の「機密」が、首相個人の後援会の慰安であるのだとしたら、国家機密そのものが私物化されていたことになる。だとすれば、この国はもはや未開の蛮国にすぎない。

 とにかく、5000円という破格の会費でパーティーを開催することで選挙区の支援者を慰撫していたのであれば、安倍さんは、無事では済まない。

 最後の可能性として、ホテルニューオータニ側が、会費5000円でのパーティー開催という破格の条件をそのまま飲み込んだ可能性も理屈の上では残されている。

 その場合、
 「ホテル側はどうしてそんな非常識な条件をのんだのか」

 という疑問に答えなければならない。

 で、その答えのひとつとして、
 「同じクライアント(安倍首相ないしは日本政府)による別の取引機会において、当面の損失を補ってあまりある利益が期待できるから」

 というプロットがある。

 なるほど、ありそうな話だ。

 実際、去る10月23日、首相夫妻の主催による天皇皇后両陛下のご即位を祝う晩餐会が、各国の首脳を招いた中で盛大に開催されたわけなのだが、その会場は、実に紀尾井町にあるホテルニューオータニだった。

 これは偶然だろうか。

 ホテル側からしてみれば、天皇即位のための晩餐会の会場として選ばれる栄誉と実益の大きさに比べてみれば、800人の立食パーティーの会費をどれだけ値引きしたところでものの数ではない。

 あるいは、安倍さんの側は、ここのところの権威勾配(というのか「威圧」)につけこむカタチで、不当なディスカウントを迫ったのであろうか。というよりも、首相サイドがあからさまに強要するまでもなく、値引きは、ごく自然に受益者から権力者に向けて「提供」されていたのかもしれない。

 してみると、これは、権力なり政府の権威なりを背景とした、「令和の代官&越後屋ストーリー」になる。

 この場合も、政府から支払われることになる晩餐会の巨額支出を、自分の後援会事務所主催のパーティー費用とバーターにして値引き交渉をしていたのであれば、より巨大な公私混同案件と見なされるはずだし、直接的に権力の威圧で値引きを勝ち取っていたのだとしても、それはそれでまた政治家としての振る舞い方を批判される理由になる。どっちにしても無事では済まない。

 もちろん、私がここで並べ立てている臆測は、取材に基づくファクトや根拠があって言っていることではない。

 「そう考えればそう考えることもできる」というだけの、言ってみれば言葉のアヤみたいなものだ。

 ただ、
 「ニューオータニによる会費5000円でのパーティー会場提供が事実であったとするなら」

 という条件から考えると、それこそ、バーター案件としてご即位奉祝の晩餐会でも持ってこないと話が合わないぞということを言ったまでのことだ。

 思うに、最重要な問題は、これほどまでにあからさまなウソごまかしであっても、首相の口から出た言葉だからという理由で、最大限に尊重せねばならなくなっているわが国のメディアの奴隷根性だ。

 メディア側は、最後の最後まで真実である可能性を勘案した上で、首相の発言を取り扱わなければならないと思い込んでいるわけで、結局のところそれほどまでに、ファクトチェックの基準を政府の側に譲り渡してしまっている。

 朝日新聞のデジタル版(asahi.com)が、11月20日11時38分に配信のweb版で
《安倍首相、招待者選定「意見言うことあった」一転認める》

 という記事を配信している。

 紙の方の新聞では、21日付の朝刊で
 《首相、接待関与認める 桜を見る会 昭恵氏も推薦》

 という見出しのもと、ほぼ同内容の記事を掲載している。

 気になるのは、時間的により遅い(つまり最新の)段階で制作されている紙版において、首相の「答弁の修正」(←個人的には「虚偽答弁」の線でたたかうべきだと思っている)を責めるニュアンスが弱まっている点だ。

 なお、現時点(11月21日17:00頃)では、web版の方でも、紙版の朝刊とほぼ同じ内容に修正した11月21日05:00更新分の記事が掲載されている。

 紙版、web版(第一報)ともに、まずリードの部分で

 《国の税金を使い、首相が主催する「桜を見る会」をめぐり、安倍晋三首相は20日午前の参院本会議で、招待者選定について「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」と自らの関与を認めた。会前夜の夕食会は、自らの後援会が主催したことも明らかにした。》

 と、首相が国会答弁の中で招待者選定への関与を認めた発言を紹介しているのだが、本文に入ると文章のトーンが変わる。

 web版(の第一報である20日11:38配信分)が

 《―略― 首相は8日の参院予算委員会では「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と説明していたが、修正した。 ―略―》

 と端的に首相が発言を修正した旨を伝えているのに対して、紙版(ならびに21日05:00更新の記事)では、

 《―略― 首相は8日の参院予算委員会で「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」と述べていた。20日は「私は、内閣官房や内閣府が行う最終的な取りまとめプロセスには一切関与していない」と軌道修正。「先日の答弁が虚偽だったとの指摘はあたらない」とも述べた。 ―略―》

 と、8日の発言が虚偽答弁にはあたらないという首相の発言を紹介するフォローの一文が書き加えられている。

 首相が、虚偽答弁をしたのかどうかは、今後、与野党ならびにメディアを含めた議論の中で争点になる部分なのだろう。

 そういう意味では、新聞の見出しで、いきなり
 「虚偽答弁」

 と、決めつけるのはむずかしいことなのかもしれない。

 とはいえ、首相は、8日の国会答弁で
 「私は、招待者の取りまとめ等には関与していない」

 と断言している。

 でもって、20日には、前言を翻して
 「私の事務所が内閣官房の推薦依頼を受け、参加希望者を募ってきた。私自身も事務所から相談を受ければ意見を言うこともあった」

 と言っている。

 要するに
 「意見を言うことはあったが、そのことがすなわち招待者の取りまとめに関与したことにはならない」

 という理屈なのかもしれないが、そんなことが通用するものだろうか。

 こういう露骨な言い逃れを
 「発言を修正した」

 という伝え方で記事にして、朝日新聞の中の人たちは、そんなことで新聞の役割をまっとうできると考えているのだろうか。

 単純な話、首相が国会答弁を修正したのであれば、メディアの側の人間は、修正する前の発言と、修正後の発言の間の整合性を執拗に追及する役割を果たさなければならないはずだ。

 「つまり8日の答弁は虚偽だったということですか?」
 「虚偽ではないのだとすると、事実誤認をしていたということですか?」
 「事実誤認をそのまま口にしていたのだとして、どうしてそのような事実誤認をしていたのか、その間の事情を説明してください」
 「勘違いや言い間違いなら、どうして8日の答弁で間違った事実を述べたのかについても教えてください」

 と、いくらでもツッコミどころはあるはずだ。

 そこを
 「首相が答弁を修正しました」

 という記事を書いて、はいおしまいにするのだったら、小学生の学級新聞と同じではないか。

 「修正しました」
 「あ、そうですか」

 では、メディアの役割を果たしたことにはならない。

 ただの政府広報だ。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00045/?n_cid=nbponb_twbn


(ここまで)



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