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JOC竹田会長オリンピック誘致での賄賂容疑でフランスが捜査開始 [アセンション]

JOC竹田会長オリンピック誘致での賄賂容疑でフランスが捜査開始


何ともショッキングなニュースが出てきました。
オリンピックが2020年の東京に決まったときにこの噂がありましたが、関係者の
調査で否定されていましたので、多くの国民も何事もなかったかのように来年度の
オリンピックを迎える前年になったわけですが・・・。

やはり、これはカルロス・ゴーン逮捕のしっぺ返しと言うことなんでしょうか?
それにしても、最近の日本政府はロシアにしろ韓国にしろ同じようなケースに
見舞われていますね。

問題は政府にありでしょうか?



(ここから)


【パリ=白石透冴】2020年東京五輪・パラリンピックの招致活動で汚職の疑いがあったとして、フランスの裁判所が招致委員会の理事長を務めていた日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長の捜査を始めたことが分かった。仏紙ルモンド(電子版)が11日報じた。

東京大会招致に絡む贈収賄疑惑を巡っては仏検察当局の捜査着手が16年に明らかになっており、証拠固めを進めていたもよう。仏では検察官が捜査の継続が適切と判断すると、「予審」と呼ばれる裁判所の捜査に移る。今後、予審判事が捜査を進め、結果を踏まえて公判を開くかどうかを決める。

招致委は既に解散し、東京大会の運営を担う組織委員会は別団体。竹田会長は組織委の副会長を務める。捜査が東京大会の準備作業に直ちに影響を与えることはないとみられるが、イメージの悪化が懸念されそうだ。

招致委は20年大会の開催地が東京に決まった13年、シンガポールのコンサルタント会社「ブラック・タイディングス」にコンサル料として2回にわたり計約2億3千万円を支払った。仏検察はコンサル料の実態は国際オリンピック委員会(IOC)関係者への賄賂だとみて、贈収賄などの疑いで捜査を始めた。

一方、疑惑を受けてJOCが設置した調査チームは同年8月、コンサルタント会社にはロビー活動などの業務実態があり、コンサル料について「違法性はない」とする報告書をまとめた。

東京地検特捜部は17年、仏検察の要請を受け、竹田会長らを任意で事情聴取した。

(ここまで)


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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール: 神話を読めばわかります・・・ 」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール: 神話を読めばわかります・・・ 」



(ここから)

私の素朴な疑問です・・・・

世間でよく言われている”神さま”って一体どんな存在なんだろう?

世間のみなさまの中の”神さま”ってどんな存在なんですか?

悪いことをしたら”神さま”の罰が当たる?

”神さま”が守って下さる?

”神さま”は善なる存在で、したがっていれば天国に行ける?

願い事をかなえてくださる?


なんかたくさん”神さま”についての話を聞くんだけど、

そして、世界にはたくさんの”神さま”がいるんだけど、

どうしても私には”神さま”が分からないんです。


私は幼稚園から大学までカトリックの学校で育ちました。

だから、聖書も読んだことがあります。

神父さまやシスターたちの聖書についての話もよく聞きました。

何度読んでも、何を聞いても????って思うだけだったんですけど(苦笑)

そして、大人になってからも興味があったので、いろんな宗教にも

首を突っ込みました。

世界で大きな宗教だと言われているところから、小さな?新興の?

宗教にも、とにかく気になったところには行ってみました。


でも、分からない・・・どうしても分からないんです。

”神さま”のイメージが出来ないんです。

どんな存在で、どんなことを考えてて、どんなことを教えてくれているのか?


”神さま”は”愛”そのものだと言われることが多いのですが、

どんな経典?教えの書?を読んでも、????って思うんですよね

”愛”そのものの存在である”神さま”が戦いをしていたり、人を試して

みたり、その上”神さま”の名のもとに人間たちが戦争をすることを

許してる?

・・許していないとしても、”神さま”の教えを守って”愛”を目指している

人たちが戦争をすることが理解できない。


これは、小さな頃から感じている私の素朴な疑問です^^;


・・ということで、”神さま”ってどういう存在なの?

教えてアシュタールぅ~~^0^

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

いつもお伝えしていますが・・”神”という特別な存在はいません。

”神”という概念は、あなた達を支配・コントロールしている存在が創り上げた

概念なのです。


人間よりも崇高で、絶対的な力を持った存在がいる。

人間はその存在が居なければ生きてはいけない。

その存在のおかげで生かしていただいてる。

その存在のいうことを聞かなければ、ひどい罰を受ける。

などという概念を植え付けておけば、支配者にとってとても都合が良いからです。


では、その崇高で、絶対的な力を持った”神”は誰なのでしょうか?

それは、宇宙人です。

笑い話、ジョークに聞こえますか?

そのような話を嘲笑するように教育されてしまっているのです。


宇宙人が”神”として君臨している・・と考えればつじつまが合うことが

たくさんあります。


神話を読まれればわかると思います。

神は崇高で、愛そのものである・・と書かれているようですが、

実はお互いの利益のためにケンカばかりしています。

そして、神は単一ではありません。

神話では、神はたくさんいますね。

それは、あなた達を支配してる宇宙人がたくさんいるからです。

あなた達を支配している宇宙人にもいろんな種族がいます。

主な種族はレプティリアンです。

その部下的な存在に、ナーガという種族と、金髪碧眼の種族がいます。

他にもいますが、主な支配者はこの3種族です。


同じレプティリアンですが、これも家族のようなもので、家族間、親族間の

トラブルや利益の取り合いなどで小競り合いがいつもあるのです。

それが神話となって語り継がれて来たという訳です。


そのような神話で語られている”神”の姿を、何かおかしいと感じる人たちが

だんだん増えてきました。

ですので、神を単一化することにしたのです。

一神教・・一人の”神”という強大な存在を意図して創り上げました。

その”神”には実態がありません。

宇宙人がイメージして創り上げたものですので、イメージがバラバラなのです。

この場面ではこう言い、違う場面ではこう言うということになってしまい、

矛盾がたくさん出てきているのです。

その場限りの話をたくさんしてしまいましたので、ある意味収拾がつかなく

なってしまい、力技で何とか言いくるめている状態なのです。


ですから、いろんな宗派と呼ばれるものが出来、その宗派で自分たちの

解釈の方が正しいと争うことになってしまっているのです。

複雑怪奇なものとなってしまっているのです。


もう一度言いますが・・あなた達が思っているような”神”はいません。

”神”だと教えられているのは、あなた達を支配・コントロールしている

宇宙人(レプティリアン、ナーガ、金髪碧眼)のことです。


宇宙はワンネスです。

すべては同じ波動エネルギーで出来ています。

だから、みんな同じ存在なのです。

特別な存在などいません。

特別に秀でた、崇高な、絶対的な存在などいないのです。


ワンネスのことが理解できれば、宗教的概念がどういうものかがわかります。

”神さま”などという存在がナンセンスだということがわかります。


すべては絶対無限の存在の分身です。

絶対無限の存在は”神”ではありません。

私であり、あなたであり、すべてなのです。


”神”という存在を自分の中に創らないでください。

絶対的な存在・・という意味で”神”と呼ぶのであれば、

あなたが”神”です。

隣の人も”神”です。


”神”という存在を崇拝し、自分の価値を落とさないでくださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。


(ここまで)


宇宙人が神?

一般人ならそう思えない人が大多数かと思いますが、このブログを読まれている

人には納得できることだろうと思います。

神話だけでなく、様々なUFOや宇宙人に関する本を読めばある程度理解できる

ことだろうと思います。

私たち自身が神の分身であり、それ以上でもそれ以下でもないということですね。





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破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:その楽な道の先には・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:その楽な道の先には・・・」



(ここから)


今日の破・常識!



あなたのちょっとの我慢が、大きな我慢になってしまう。

その時はちょっと我慢することで楽になったと

思うかもしれないが、その楽な道の先には

いばらの道が広がっている・・・らしい(笑)



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今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。







「こんにちは こうしてお話し出来ることに感謝します。

私が少し譲歩すればここは丸く収まるから、

ちょっとだけ目をつぶろう・・って思うことはありませんか?

ここで少しだけ自分が我慢すれば、あの人のイヤな顔

(不愉快そうな顔)を見ずにすむから・・

だからちょっとだけ我慢しとこう・・って思うことはありませんか?


その時はその方が楽な道に思うかもしれませんが、

でもその道はその後いばらの道へとつながっていることを

わかってください。言い方を変えると・・

ちょっと我慢すると我慢の回路が開いて、そのあとどんどん

我慢しなければいけないことが増えて来る・・ということです。

ここを丸く収めるために自分が少し我慢すればいい.・・

って思うことは、我慢を自ら進んで受け入れるということです。

我慢を選ぶということですから、

自分で我慢の現実をつくり出すということです。

ちょっとだけ・・このちょっとだけが、

ちょっとだけにとどまらなくなるのです。わかりますね?

ちょっとそれは理不尽な要求だな、と思っても、

それを拒否するとその場の空気(雰囲気)が悪くなるから、

だから今日のところはちょっとだけ受け入れて・・なんて思っていると、

今日のところだけでは済まなくなるということです。

それはひとりの人にとどまらなくなります。

この人だけに我慢します・・と言う訳には行かなくなるのです。

他にもあなたのまわりには、

あなたに我慢を強いる人が集まってきます。

なぜなら、そのちょっとだけを思考の習慣にしてしまうと、

それがエネルギー場でも出てしまいまうからです。

ある意味、私は我慢を受け入れます・・

とエネルギー場で宣言しているのと同じになるのです。

そこに、自分の言うことを聞いてくれる人

(我慢してくれる人)いないですか?・・と

エネルギー場で探している人がいると、

その人とエネルギー場で合意が出来てしまい、それが現実となって、

あなたはまた我慢しなければいけないことになるのです。


私のまわりには理不尽なことを要求して来る人が多いのよねぇ~~、

なんか私ばかり我慢しなければいけないことばかりが

起きるのよねぇ~~どうしてなのかしら?・・

私の何が原因なのぉ~~・・って思っている方は、

あなたの・・ここは丸くおさめるために、

ケンカにならないように、

みんなが平和で笑っていられるために・・

私がちょっとだけ我慢すれば、ちょっとだけ引いておけば・・・

という思考が原因だということをお伝えしたいと思います。

何も表だってケンカをしてください

と言っているわけではありません。

口に出さなくても、エネルギー場で

私は我慢しませんと宣言していれば、あなたに我慢を

強いる人とエネルギーがつながりませんので、

そういう場面もなくなるのです。

言っている意味が伝わっていますでしょうか?


エネルギー場で引いてる人には、

押してくる人が寄って来るということです。

姿形(身長や体型など)ほとんど変わらないのに、

いわゆる怖い方たちに声をかけられる(ケンカを吹っ掛けられる)人と、

まったく声をかけられない人がいるのはどうしてでしょうか?

これはエネルギー場で引いているか、

引いていないかの違いなのです。

エネルギーが引いていると、ある意味

オドオドした雰囲気を醸し出しているのです。

オドオドしていると、何となく威嚇したくなる人がいるのです。

威嚇することでその人から

エネルギーをチャージすることが出来るからです。

でも、引いてない人は、この人を威嚇しても

オドオドしたエネルギーを出さない(怖がらない)から

エネルギーをチャージすることが出来ない

と思うから関心を持たないのです。


人は(人だけではありませんが)まずエネルギー場で話をします。

そして、お互いの合意が出来れば現実になるのです。

我慢してください・・と言う人と、いえ私は我慢しません・・

と言う人では合意が出来ませんので、我慢しませんという人には、

我慢してくださいと言う人は近づいてこないのです。


我慢するのがイヤな人は、ここは丸く収めるために

ちょっとだけ我慢しましょう・・という思考を捨ててください。

我慢しなくても丸く収めることは出来るのです。

ケンカしなくても、お互いの意見を尊重しあい、

いい解決法を見つけることは出来るのです。

誰かの我慢の上に成り立つことは長続きしません。

その時は、何となくうまく解決したと思っても

必ずまたどこかで同じような問題が起きてきます。

あなたがちょっと我慢したことは、

問題を後回しにするのと同じことなのです。

そして、その後にまた問題が起きて来る時は

もっと大きな問題となってきます。

そして、それをまた後回しにするためには、

あなたのちょっとの我慢が、大きな我慢になってしまうのです。

その時はちょっと我慢することで楽になったと

思うかもしれませんが、その楽な道の先には

いばらの道が広がっていることをわかってくださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール!


(ここまで)


我慢すると言っても、誰かのために我慢しなければならないという機械自体が

私の場合減ってきているので、そうしたことは少ないようです。

しかし、我慢しなければならない時には我慢しているということをわかった上で

我慢するようにしています。

我慢しなければこの先どうにもならないという思考ではなく、我慢するべきで

あるという思考ですね。それを受け止めているという事です。

だから、我慢はそこでいったん終止符を打つような形になります。


もし、それを何かのために自分を犠牲にして我慢しているという思考になると

同じように我慢をしなければならないことが続いて起きてきます。

少し、言葉では説明しにくいのですが、自分が我慢をしているという事を

認識しているという状態になります。

言葉を変えて言うと、自分が我慢することを必要としているから我慢していると

言い換えることもできます。主体は他人ではなくあくまでも自分です。

アシュタールの述べているのとは少し異なる点があるとは思いますが

そうした方法もあるかと思います。









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