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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:人のことを祈る必要はありません 」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:人のことを祈る必要はありません 」




(ここから)

世界の平和って、祈らなきゃダメなの?

平和って祈らないと達成できないの?

どうやったら、世界は平和になるの?

教えてアシュタールぅ~~^0^;


「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

まず、あなたの中を平和にしてください。

あなたの現実は、あなたの思考の反映です。

あなたがどんなに世界の平和を祈ろうとも、あなたの中が波立っていたら

そのような世界しか見えないのです。


あなたが平和でいるためには・・あなたが好きなことをしてご機嫌さんでいれば

いいのです。

人のことを祈る必要はありません。

あなた以外の人は、それぞれにその人の現実を創造し生きているのです。


そして、あなたの世界を平和にするには、干渉しないことです。

誰かの世界に干渉しないということです。

あ~しなさい、こうしなさい、そうするべきです、そうであらねばいけないのです・・

と自分の価値観、思考、やり方を押し付けないことです。

その人の価値観、思考、やり方を尊重するということです。

人にはそれぞれの価値観、思考、やり方があるということを尊重するということです。

それは、親子であっても、家族であっても、パートナーであっても同じです。


でも、どうしても干渉したくなります・・

それは、あなたがあなたを生きていないからです。

あなたが好きなことをして、ご機嫌さんで楽しく自分の人生を生きていれば、

人のことは気にならなくなります。

人のことが気になるということは、あなたが縛られているからです。

あなたがこうしてはいけない、こうでなければいけない・・と自分で自分をしばって

いるから人をも縛ろうとしてしまうのです。

自分をしばることなく、楽しく生きていれば、人をしばろうとも思いません。

自分の思い通りにしようとも思わなくなるのです。


人が人に干渉しなくなると(人だけではなく、植物、動物、鉱物、テラすべてにおいて)

みんなが自由になります。

自由になるとご機嫌さんでいられるのです。


干渉しないことと、関係性を築かないことは違います。

干渉しないと孤独になるのではなく、もっと関係性が深くなるのです。

自由で気持ちの良い関係を築くことが出来ますので、もっと親密になることが出来ます。


あなた達は干渉することが愛だと教育されてしまっていますが、反対なのです。

干渉しないこと、相手の意見、価値観、思考、やり方を尊重することが愛なのです。

ですから、干渉しない世界になると、世界は愛で満たされ、平和になるのです。


平和を祈らなくても、自然に平和になって行くのです。

祈る・・ということ自体がもう干渉であるのです。

人の平和を祈る・・それも干渉なのです。

平和になる、ならない、はその人の自由なのですから。

誰かの平和を祈るというのは、大きなお世話だということなのです。


ですから、世界の平和を祈る必要はありません。

あなたが平和な世界を望むのならば、まずあなた自身が平和になってください。

あなたが平和でないのに、誰かを平和にすることは出来ないのです。


人は自由になれば、必ずご機嫌さんになります。

ご機嫌さんばかりがいる世界・・それが平和な世界なのです。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。

(ここまで)


アセンション情報の中ではよく出てきますね。

「平和への祈り」という言葉です。

そして、それを旗印にした集団瞑想という呼びかけです。

これが間違いであることは今回のアシュタールの語ることでおわかりのことと思います。


なぜ、こうした呼びかけが行われるのでしょうか?

それは第一に人々を間違った方向、つまり他に依存しないといけないという姿勢を

持つことをその人の心の中にもたらすことを目的としているからです。

祈らなければ平和は実現できない。祈ることで平和が実現する。

もし、それが本当であれば、あちこちでこうした祈りがささげられているはずなので

この世界は平和で満たされていなければならないはずですが、現実はそうなっていま

せん。どこかで争いが起きています。また、自分自身の心も穏やかでないはずです。

「神に対する祈り」がいちばん多くありますが、そもそも神などいないのですから

無意味なことと思います。いるならば多少の効果があるかもしれませんが・・・・。


二つ目はおそらく集団瞑想を行うことで波動の共振を促すことです。そしてその対象は

平和ではなく、集団瞑想を求めている存在へとつながる波動です。

それが平和的であればいいのですが、おそらく集団瞑想をする人たちを同じような

ところ(考え、思想)へ誘導するためのものであり、それによってコントロールする

ことを目的としていると思います。


もし、自分自身の心が平和でなければ、いくら平和を求めても実現しないでしょう。

平和を求めているという心の充足感は満たされても、それは平和ではなくあくまでも

自分が平和を求めているという虚栄心につながるみせかけの平和です。


私たちは世界各地で災害が起きるたびに、また日本で起こる都度平和への祈りを

捧げられるように求められることがありますが、意味がないという事ですね。


しかし、キリスト教会などでは毎日祈りが捧げられているはずなのに、また仏教徒も

世界各地で毎日のように平和の祈りが捧げているはずなのに・・・・。

ということですね。









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