SSブログ

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:”ふつうの人・・・」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:ふつうの人・・・」




(ここから)


鳥山明さんに「漫画家になれますか?」「学校へ行けない僕」のその後


その中で、不登校の経験をマンガにしている作者の方が・・・

「作中では『フツウにならなきゃ』って焦っていましたが、

僕が思っていた『普通』って『結構うまくいっている人』のことを

さしていた気がします。勉強もできて、スポーツもできて、みたいな」


って、おっしゃってるんですよね。


これなんですよねぇ~~、不登校に限ったことじゃなくて、ホント、誰でも

ここにハマってるんじゃないかなぁ~~・・ってすごく思うんですよねぇ~~

「ふつう」っていう言葉・・・ある意味すごく怖ろしい言葉なんじゃない?


・・・ということで、今日のアシュタールからのメッセージをお伝えしますね^^

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

ふつうの人・・という人はいません。

みんな個性があって、それぞれなのです。

ふつうの人・・そんなカテゴリーに収まる人はいないのです。


お分かりだと思いますが・・

どこからどこまでがふつうで、どこからどこまでが普通じゃない・・などの明確な

ものはないのです。


Aさんから見たらCさんはふつうの人だけど、Bさんから見たらCさんはふつうじゃない人・・

ということもあり得るのです。

それは、見た人の価値観やものの見方、考え方によって大きく変わるからです。


ちゃんとした?会社に勤めて、朝から晩まで働いている人をふつうの人、

それがふつうの生活だと思っている人は、会社に勤めず何か(自分には)わからない

仕事をしているような人はふつうの人とは思わないのです。


反対に、会社に勤めず自由な生活をしている人から見れば、その人はふつうの人なのです。


人数が多いカテゴリーがふつうで、少数派はふつうじゃない・・という判断もおかしいのです。

人数が多い方が正しい、少数派は間違っているということはありません。

ふつうが正しくて、ふつうじゃないことが間違ったことということもないのは分かりますね?

何がふつうで、何がふつうではない・・などという規準はないのです。

なんとなく・・ふつう?という感じじゃないでしょうか?


そのようなあいまいな判断によるふつうを大切にし、ふつうにならなければいけないと

思ってしまうと、蜃気楼を見て砂漠を彷徨うようなことになってしまいます。


ふつう・・それは、ある意味ワンサイズの洋服のようなものです。

ワンサイズの洋服を着なさいと言われているようなものです。

人の身体の個性を無視して、洋服に合うような身体になりなさい・・と言われているのです。

ふつうは着られますよ・・と言われて、着れない自分が悪いと思い込み、何とか洋服が

着られるように頑張っているようなものなのです。


みんなが着られているのに、どうして自分は苦しいのだろう、違和感を感じるのだろう・・

と、みんなが思っているのです。

自分以外はみんなぴったり来ていると思い込んでしまっているだけなのです。

だから、みんなそのことを口にしません(この服は着にくい、ツライ、苦しいなど)

でも実は、みんな苦しいのです。

みんな違和感を感じているのです。

丈が長かったり、袖が短かったり、胸回りが窮屈だったり、肩幅が大きすぎたり・・

いろいろなところに不具合が起きているのです。

違和感を感じているのです。


でも、それが当たり前だからと思って、洋服に合わせようとしているだけなのです。


この服は窮屈で着られない・・と言う人がいても、その人は変わり者だから、自分とは

違うから、と思って、ふつうに着ているふりをしてしまうのです。


みんな違和感を感じています。

それを知ってください。

そして、違和感があると口にしてください。


洋服はワンサイズでは無理なのです。

それぞれの身体の個性を無視しては苦しくて仕方がなくなるのです。

着られないのは自分が悪いからだ、努力が足りないからだ、と思ってしまうと身体を

こわし、こころのバランスも崩してしまいます。


着られない服を無理して着ようとしないでください。

着られないものは着られないのです。

自分の身体にあった着心地の良い服を探して着てください。


あなた達を支配・コントロールしている人たちは、人々を没個性にしようとしているのです。

教育などでひとつの答えだけを求めるようにするのも、みんなが同じ考え方を

するように仕向けているのです。

なぜならば、みんなが同じような考え方、価値観を持てば、楽に支配・コントロール

出来るからです。

ワンサイズの服だけを作っていればいいので、楽だからです。


個性はいらないのです。

没個性で、何も考えず、何も文句を言わず自分達にしたがってくれる人たちを

育てることが目的なのです。

そして、何かあれば、自分が悪かったから、努力が足りなかったから・・と自分を

責める人を作りたいのです。

そうすれば、いつまでも彼らの支配・コントロールに気がつかないからです。


話が逸れてしまいましたので戻しますね。

ふつうという言葉に振り回されないでください。

ふつうの人はいません。

みんなそれぞれに個性があって、とてもユニークな存在なのです。


作られた幻の”ふつうの人”を探して、自分を見失わないでくださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。

(ここまで)



性格や考え方、ものの見方、そして育った環境は人それぞれ違うのだから才能の

現れ方は多様であり、どれがいいとも悪いとも言えないということですね。

すべての人がそれぞれ個性的であって、すべての人が尊重されるべきもので

あるということです。


だから、カテゴリー分けなんかする必要は全くないものです。

しかし、私たちは何らかのレッテルを貼らないと自分が劣って見えるのが嫌で

そうしてしまうんですね。

そうしてカテゴリー分けをしてしまえばとりあえず自分は安全圏にいられる・・・。

そんな感じでしょう。


そのカテゴリー分けされた中からホントにふつう以上を目指そうとします。

でも、社会に入ると学校時代のカテゴリー分けが通用しなくなり新たなカテゴリー

分けをしてまた同じようなことします。

似たような仲間同士で行動し不満を分け合う・・・みたいな。


そして、何とか上位のカテゴリーに入ろうと必死になりますが、ときには疲れ果て

社会から不適合とされることも少なくありません。

でも、それはカテゴリー分けして何とかその型にはめ込もう、入ろうとするから

起こることなので、それを止めすべてを認め合えるようになればいいことです。

でも・・・。

それでは会社は勤まらない!?


そうですね。

そんなときには仕事の手を休めて一息つくか、どこか旅行に行くのが良いです(笑)。







nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。