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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:死んで、ワンネスの世界に戻ると波動は?」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:死んで、ワンネスの世界に戻ると波動は?」



(ここから)

ひとつ教えて頂きたいのですが、

人は死んだらワンネスに戻るとお聞きしています。

ワンネスにも波動領域がありますか?

肉体を手離したあとの想念だけがその領域に

戻るのでしょうか。

愛の大きさによって戻る領域が変わり、

波動の軽い領域と重い領域は交わらないという認識で

よろしいでしょうか。


・・・というご質問をいただきました^0^

では、よろしくお願いします、アシュタールぅ~~^^




「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

ワンネス・・これは物質世界で分離を体験しているあなた達には

とても理解しにくいことだと思います。

波動エネルギーについて教えてもらっていないのでもっと理解するには

難しいと思います。


ワンネスは絶対無限の存在です。

すべてなのです。

ワンネスはすべてを包括しているのです。

すべてがそこにあるのです。

(物質ではないので、あるという言い方もおかしいのですが・・・)


軽い波動領域も、重い波動領域もありますが、無いのです。

禅問答のようですね。

あるけど、ない・・・どういうことでしょうか?


絶対無限の存在がそれを意識すると、波動領域が出来ます。

でも、意識しなければそれは出来ないのです。

難しいですね・・・


それがすべてがあるということなのです。

すべて、何もかもが絶対無限の存在(ワンネス)にはあるのです。


簡単に言ってしまえば、何でもあり・・ということです。



すべてがあると言えばありますし、何もないと言えば何も無い

とも言えるのです。

それはすべて絶対無限の存在の意識だからです。

そして、私たちもその絶対無限の存在の意識の中にいます。

外にいるように思えるかもしれませんが、実はずっと絶対無限の

存在の意識の中で遊んでいるのです。


私もあなたも絶対無限の存在から分離しているわけではないのです。

分離しているように感じているだけなのです。

ですからすべてつながっています。

あなたは私、私はあなた・・なのです。


あなたも私も、あなたの隣にいる方も、世界中の人々も、テラだけ

ではなく宇宙のすべての存在も、分離しているように見えて、

絶対無限の存在の中で溶け合っているのです。

物質的に分離していると思ってるのは、あなたが作り出したこと

なのです。

分離という感覚を楽しみたいと思って自分で分離の感覚をつくり

出して遊んでいるということです。

それもまた絶対無限の存在がやりたいと思っているからです。

こう表現するとまた自分と絶対無限の存在は違うと思ってしまうかも

しれませんね。

絶対無限の存在であるあなたが、分離の感覚を楽しみたいと思った

ということです。


絶対無限の存在は1つですが、意識すればものすごくたくさんの

意識を創り出すことが出来ます。

それがあなたであり、私なのです。


もう無理ですか?

迷子になってしまいましたか?


ワンネスに関しては理解出来ない事だらけだと思います。

ただすごくシンプルにお伝えしますと、ワンネスはすべて同じ存在だと

いうことです。

すべてが自分なのです。

すべては同じで平等だということです。

だから、特別な存在はいない・・ということです。

みんな同じ存在・・・だから特別に偉い人(たとえば全知全能の神のような

存在)はいないということだけを理解していただきたいと思います。


あなた達の社会は分離からくる区別によってツラい現状をつくっています。

特別な人を崇め、その周囲の人を尊び、物をたくさん持つ人が

素晴らしい人としてヒエラルキー(身分階級)が出来ています。

特に宗教などは神などという概念によってヒエラルキーの思考を

強くしています。



ですからワンネスをしっかりと分かっていただきたいのです。

ワンネスのことがわかれば特別な存在はいないということが

理解出来ます。

ピラミッド社会のヒエラルキーがおかしいものであるという

ことが理解出来るのです。


特別な人に憧れたり、崇めたいと思うときは、ワンネスのことを

思い出してください。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。

(ここまで)


確かに???でしたね。

この疑問は私も持っていたのですが、何となく理解は出来ました。


私たち自身も同じですね。

人それぞれ考えていることは違いますが、言葉や行動に出さないだけで

実にいろいろなことを考えています。

その時々で良いことも悪いことも考えています。

それは誰もが経験していることでしょう。

だから、善だらけ、悪だらけというのもあり得ないことになります。

どちらの割合が多いか少ないかだけです。


絶対無限の存在から私たちが生まれたとするなら、私たちはそのコピーです。

コピーということは絶対無限の存在としても思考や行動傾向は持っていると

いうことになります。

ただ、全体的なコピーではないのでところどころ人それぞれ異なり、それが

個性を生んでいます。


絶対無限の存在にとって、「すべてがあり、すべてがない」ということは

思考次第で何でも「あり」とすることができるということです。

波動の軽い世界を思えば軽い世界になり、逆に重い世界を思えば重い世界に

なり、すべてを具現化できると言うことになります。


私も時々考えるのですが、仮にこの世界で悪の限りをしつくして亡くなって

絶対無限の存在の世界に戻ったときには私と言う個性はこの世の悪の塊と

なっているでしょう。

それでも、私は絶対無限の存在の場所に戻ります。

そのとき、絶対無限の存在は「悪の権化だからダメ!」と言って戻るのを

拒否するのでしょうか?

おそらく拒否せず受け入れてくれるはずです。

なぜなら、そこにはすべてがあるからです。

絶対無限の存在から旅立つときにも「どんな経験でもいいからしてきなさい」と

言われて旅立つのですから、断る理由はありません。


ただ、先日のアシュタールの語る内容にもあったように、戻った時にはすべてを

体験するということです。

悪の限りをしつくした私は「悪の限りをすることに喜びを覚えていて、それが

自分にとって快感であった」と思うかもしれませんが、戻った時には虐げれた

人々の思考や考えを逆の立場になって追体験することになります。

そのときに自分に虐められた人々の「悲しさ」「せつなさ」「つらさ」「痛み」

などを理解します。

しかし、それは個の体験であって、最終的には絶対無限の存在の体験のプールの

中に同一化され溶け込んでしまい、無数の限りない体験の一部になるでしょう。

その時には個としての意識ではなくすべてを包含した意識になることでしょう。

そして、私の悪としての体験だけではなく、この世でよい体験をした人々の体験も

その中にあるわけですから、波動的に見れば何でもありということになります。

だから、私たちは死後、波動の軽い重いの体験のどちらを体験しても体験の一部

でしかなく、その後もさらなる体験の旅を続けるということになります。

そう考えると、今どちらの体験をしてもいいことになります。

しかし、どちらが自分にとって心地よい体験かと問われれば軽い方を選ぶでしょう。

この宇宙を含め、絶対無限の存在の世界は私たちの思考を超越した世界です。

私たちの創造すらできないこともあると思います。

そのため、すべてを知ることもまた不可能なことです。

だから、今いる世界を思う存分楽しむことと、さらなる世界を目指すべきなのだろうと

思います。


(追記)

同じ、あるいは似た波動を持つ者同士は引き付け合うという法則があるので
元の絶対無限へは戻らず、別の集合体に行く可能性もあると思います。


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