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これまでの年金財政の流れと2000万円不足となった原因 [政治・経済]

これまでの年金財政の流れと2000万円不足となった原因

かなり長文ですが、これさえ読めばどうして年金財政が苦しくなりかっての積み立て方式から現在の賦課方式に変わったのです。それにしても、大金を前にするとみんな気が狂ってしまうんですね。なにしろいくらでも集めれば集めるほど湧いてくる金でしたから。
もう、国民の老後なんて誰も考えていないことがよくわかります。


(ここから)

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年金官僚による乱脈な使い込み、政治家によるバラ撒きと大規模リゾート施設の建設、そして5000万件の消えた年金記録――2000万円の老後資金不足を招いた政治家と官僚による「年金破壊」は、この国に年金制度が誕生した時から計画され、80年かけて実行されてきた壮大な収奪劇であった――。ジャーナリストの武冨薫氏が、この80年の自民党や官僚のあまりにも杜撰な歴史をリポートする。

「せっせと使ってしまえ」

 戦時色強まる昭和15年(1940年)の秋、厚生年金(当時は労働者年金保険)の創設を発表する記者会見で厚生省の年金官僚・花澤武夫氏はこう演説した。

「労働者の皆さんが軍需生産に励んでこの戦争を勝ち抜けば、老後の生活が年金で保証されるだけでなく、いろんな福利厚生施設によって老後の楽しみを満たすことができる。年金の積立金の一部で1万トン級の豪華客船を数隻つくり、南方共栄圏を訪問して壮大な海の旅を満喫いたしましょう」

 翌日の朝刊各紙は社会面に5段ぶち抜きで報じ、労働者年金は“夢の年金”を求める国民の声を背景に昭和17年(1942年)に創設。2年後に厚生年金と名称を変えた。

 日本の年金制度は戦費調達が目的だったとされるが、正確ではない。年金官僚は年金資金でアウトバーンや労働者住宅を建設した同盟国・ドイツのヒトラーの手法に倣い、創設当初から流用を考えていた。

 冒頭の「豪華客船演説」を行なった花澤氏は初代厚生年金保険課長を務め、引退後、『厚生年金保険制度回顧録』(昭和63年刊)でこう語っている。


〈法律ができるということになった時、すぐに考えたのは、この膨大な資金の運用ですね。(中略)この資金があれば一流の銀行だってかなわない。今でもそうでしょう。何十兆円もあるから、(中略)基金とか財団とかいうものを作って、その理事長というのは、日銀の総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになったときの勤め口に困らない。何千人だって大丈夫だと〉

 当時の厚生年金は保険料を20年支払えば55歳から受給できる積立方式で、花澤氏の計算では年金資金は60年間の総額が450億円(現在価値で350兆円)に上ると弾いていた。

〈二十年先まで大事に持っていても貨幣価値が下がってしまう。だからどんどん運用して活用したほうがいい。何しろ集まる金が雪ダルマみたいにどんどん大きくなって、将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課方式(*注)にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ。それで昭和十八年十一月に厚生団を作ったのです〉

【*注/現在の高齢者の年金を、次の世代が納める保険料で払う仕組み。「世代間扶養」と呼ばれる現在の日本の制度】

 厚生団は厚生年金病院や厚生年金施設を運営する財団法人だ。初代理事長は厚生省保険局長。年金制度ができたときから“天下り利権”がセットで用意されたのである。

〈この戦争で勝てばいいけれども、もし敗けて、大インフレでも起こったら、でももうその時はその時だと。外国をみても、どこの国も積立金はパーになってしまった〉(同前)

 すさまじい証言である。徴収した保険料は最初から使い果たすつもりだったことがうかがえる。

 敗戦後のインフレで年金は実質「パー」になり、戦後の混乱の中で、軍需工場で働いていた人々の保険料納付記録が散逸し、現在に続く最初の「消えた年金」が発生した。

票を買え、ハコ物を建てろ

 年金官僚と政治家たちは戦後復興とともに本格的な“年金共栄圏”づくりに走り出す。

 昭和29年(1954年)に厚生年金法を全面改正し、支給開始年齢を55歳から60歳支給に引き上げた。さらに安倍首相の祖父、岸信介氏が首相に就任すると国民年金法(65歳支給。25年加入)を成立(1959年)させ、厚生年金と合わせた「国民皆年金制度」をつくって会社員以外にも保険料徴収の網をかけた。

 岸氏は戦前、東条内閣の商工大臣として労働者年金制度の発足に深くかかわっている。厚生年金の支給を5年遅らせ、新たな年金を創設すれば保険料だけがじゃんじゃん入ってくる仕組みを十分わかっていたはずだ。

 折しも高度成長期が始まり、保険料収入が潤沢になると、自民党は選挙で老人票を“買収”するため今度は年金大盤振る舞いを始めた。

 国民年金に加入できない高齢者に保険料負担ゼロでもらえる「福祉年金」を創設、さらに保険料を10年払えばもらえる「10年年金」、5年でもらえる「5年年金」を次々に創設した。田中角栄首相が登場すると「福祉元年」を掲げ、福祉年金の支給額を月5000円から1万円へと倍増させた。

 政治家が湯水のように金を使うのを年金官僚たちが指をくわえて見ているはずがない。こちらは年金保険料で厚生年金会館という名のホテル、プール、スケート場などの年金施設を全国265か所に建設し、天下り財団に運営させた。

 その中核の「厚生年金事業振興団」(厚生団から改称)は病院、看護学校を含めて100以上の施設を運営し、職員約5400人、天下り官僚120人という巨大財団に成長した。年金から投じられた金額は建設費・運営費合わせて約1兆5000億円にのぼる。官僚OBの給料や退職金まで年金丸抱えだった。

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年金利権で味を占めた政治家と官僚がガッチリ手を組んで次に進めたのが悪名高い大規模年金保養基地「グリーンピア」事業だ。

 総額2000億円をかけて1980年代までに全国13か所のリゾートホテルを建設、候補地選びや業者選定に厚労族議員が幅をきかせ、年金官僚は新たな施設運営法人「年金福祉事業団」をつくって天下り先を増やした。

 1か所の予算が200億円で計画されたグリーンピアは、政治家にとって垂涎の巨大公共事業だった。

 有力な厚労族議員の数だけ事業が増やされ、13か所のうち9か所が歴代の厚生大臣経験者の地元に誘致された。だが、どの施設も大赤字で閉鎖後に二束三文で売却され、建設費の97.5%が損失となっている。

 建設費2000億円をはじめ、借入利息や管理費など総額3800億円を政治家や天下り役人たちが食い散らしたのである

 霞が関で“満腹事業団”と呼ばれた年金福祉事業団は、グリーンピアの他に年金積立金の運用や住宅融資を手がけ、トータルでなんと4兆円を超える損失を出している。


上は「袖の下」、下は「サボリ」

 年金危機が表面化してもシロアリ官僚たちの年金蚕食は止まらず、“袖の下”や年金着服が横行した。

 関東の年金施設建設工事の入札をライバル企業と争った設備会社の役員は、厚労族の大物議員の勉強会で紹介された厚労省の課長に口を利いてもらって受注に成功した。

 後日、“お礼”として2万円入りの商品券を50箱、菓子折と一緒に紙の手提げ袋に詰めて厚労省本庁舎を訪ねた。

「そこに置いておいて」。挨拶すると課長は中身を確認もせずにアゴで自分の席の後方を指したという。

「こちらは非常に緊張したが、課長は慣れているようにみえた」。2000年代の初め頃、筆者が設備会社役員から聞いた証言である。

 上が袖の下なら、下はサボりと着服だ。年金業務を行なう旧社会保険庁(現在は日本年金機構に改組)では、労使間で「働かない協定」が結ばれていた。

〈1人1日のキータッチは5000回以内〉〈窓口装置を連続操作する場合(中略)操作時間45分ごとに15分の操作しない時間を設ける〉――など87項目におよぶ。端末のキータッチ5000回で打てる文字はA4判で2枚程度。かかる時間は30分ほど。それで1日の主な仕事が終わる。役人の間で「楽園」と呼ばれていたが、職員約1万7000人の給料は年金会計から支払われてきた。

 そのうえ、年金窓口では、職員が現金で納付された年金保険料を着服する事件が何度も起きた。

 1985年の基礎年金制度の導入の際、厚労省から全国の市区町村に対して「年金台帳廃棄命令」が出され、その後撤回されたものの、推定5億件の膨大な資料が処分されたとみられている。後に大問題となる「消えた年金記録」の解明を阻む最大の原因となった。

 この廃棄命令は悪徳官僚による保険料ネコババを一斉に“証拠隠滅”するためだったという見方が強い。


香典や事故の賠償金まで

 そして年金財源が枯渇するダメ押しとなったのは、1997年から始まった新たな手口の年金流用だった。

 年金官僚は「財政構造改革の推進に関する特別措置法」の改正で年金財源を「事務費」に使える規定を巧妙に盛り込むと、それまで以上に大手を振って年金の金を使い始めた。

 社保庁長官の交際費や香典の支出、公用車(247台)の購入、職員の海外出張費から、職員が起こした交通事故の賠償金、職員用宿舎の建設費(新宿区の3LDKで家賃約6万円)などに年金の金が湯水のように使われた。

 それだけではない。「職員の福利厚生」の名目で、社保庁職員専用のゴルフ練習場の建設やクラブの購入費、テニスコート建設、マッサージ器(395台)購入などに総額1兆円近い金が消えたのである。

年金官僚には国民の「老後資金」を預かっているという責任感が完全に欠けていた。

「年金100年安心プラン」という国民騙しのスローガンで大改悪が進められた2004年の小泉年金改革の際に一連の年金官僚たちの乱脈ぶりが発覚し、社保庁や厚生年金事業振興団などの廃止論が高まると、天下り団体側はよりにもよって年金のカネで自民党の厚労族議員に献金攻勢をかけ、政官一体となって抵抗したのである。

 そしてついに、年金官僚たちのサボタージュで「消えた年金」記録が5000万件に上り、年金未払いになっていることが突き止められると、時の第1次安倍政権が倒れた。

 消えた年金は10年以上かけて現在までに3000万件の照合が行なわれ、それだけで未支給額が2兆7000億円だったことがわかったが、まだ照合できない記録が2000万件近く残っている。年金制度の歴史に詳しい社会保険労務士・北村庄吾氏が語る。

「政府は年金危機を少子高齢化のせいにしているが、それだけではない。政治家と官僚が年金積立金を長年にわたって使い込み、制度の根幹を滅茶苦茶にしてしまったことが最大の原因の一つです」

 国民の老後資金は、こうして「消えていった」のである。

※週刊ポスト2019年7月5日号

(ここまで)



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