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破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:高次の愛(プレゼント)・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:高次の愛(プレゼント)・・・」



(ここから)


今日の破・常識!



プレゼントしたものはもうあなたの手から離れ

その人のものとなっている。

その方がそれをどうしようと

あなたには何もいう権利は、なくなるということになる・・・らしい(笑)



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今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。







「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します

どなたかに何かをして差し上げるときは、

見返り?お返し?を期待しないでください。

プレゼントはあなたの手を離れた時から

あなたのものではなくなります。

伝わっていますでしょうか?


喜ぶ顔を見たいから・・といってプレゼントすることは

期待していることになるのです。

ありがとう・・という言葉を期待していることになるのです。

分かりますか?

もし、あなたがプレゼントしてもその方が喜ぶこともなく、

ありがとうということもなく、もしかしたら目の前で

捨ててしまうこともあるかもしれません。

でも、プレゼントしたものはもうあなたの手から離れ

その人のものとなっているのですから、

その方がそれをどうしようとあなたには何もいう権利は

なくなるということになるのです。


私が言いたいのは、プレゼントするならば

そのことを覚悟の上でプレゼントしてください・・ということです。

プレゼントすること自体を喜びと感じられないならば

プレゼントしないでください。

期待すると、それが自分の思ったような反応が

返って来なかったときに怒りや悲しみやがっかり感が起きます。

その感情が相手の方への感情になった時に、

その方との関係がおかしくなってしまうということになるのです。

難しいですか?


自分がプレゼントしたいだけです・・と思ってプレゼントすれば、

相手の方がどういう反応をしても

あなたはそのことに関して何の感情も起きません。

自分がプレゼント出来た・・あなたには喜びだけが残ります。

それが、提供するということです。

何かを期待してプレゼントするのは、

提供ではなくある意味物々交換的な考えなのです。

差し上げたのだから、何かの形で返してくださいね・・というのは交換です。

喜ぶということも、ありがとうという言葉も交換になるのです。

だから、返してくれなければ話が違うでしょ・・と思ってしまうのです。

ですので、何かをして差し上げる時は覚悟してください。

何も返って来なくても、それでも自分がしたいからするのです・・

と思えますか?・・と自分自身に聞いてみてください。

それでもいいと思えるならば、プレゼントしてください

そうすれば、何も問題は起きません。


人を好きになる、愛するということも同じです。

私も愛してるのだから(愛のエネルギーを差し上げているのだから)、

あなたも私にそれを返してください(私も愛してください)と

見返りを期待してしまうから問題が起きてしまうのです。

そうではなく、あなたを愛することが出来ることが

私にとってうれしいことです・・という考え方が出来れば、

もしあなたにその方から愛のエネルギーが返ってこなくても

何も問題ではなくなるのです。

愛のエネルギーはプレゼントなのです。

プレゼントする喜びを大切にしてください。

プレゼントすることに見返り?お返し?を期待するから

問題が起きてくるのです。


あなたが主になってください。

あなたがどう思っているか、それだけでいいのです。

私があなたを愛しています・・それだけでいいのです。

私が愛のエネルギーを差し上げることが出来る

あなたの存在に感謝します・・と思えれば、

例え愛のエネルギーが返って来なくても

あなたは平和でいられます。

自分の中に愛のエネルギーが満たされますので

あなたは満足できるのです。

それが、高次の愛の表現(プレゼント)です。

高次の愛(プレゼント)は、尊敬と感謝のエネルギーなのです。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール! 



(ここまで)


相思相愛と言う言葉にあるように、私たちの愛は見返りを求める愛です。

無償の愛の姿をひとの中に見ることはありますが、その人がどういう心境で

どういう思いで無償の愛を貫いているかまではわかりません。

もしかしたら、「神が喜ばれるから」と思っている可能性もあります。

そうした場合には愛を与えた人ではなく神からの喜びと感謝の念を求めている

ことになりますが、対象は違えど見返りを求めていることには相違ないと思います。

それを求めない愛が本当の愛となります。

なかなか難しいと思います。

いちどならいざ知らず、それが何度も重なるとやはりどこかで見返りを求める

気持ちが起きてきます。


それは私たちがそのように教育されていることもありますが、社会全体として

愛というものはそのようなものだと日々の体験の中から学習しているからですね。

もし、社会全体として「愛は与えるもの」という事が定着していれば愛の奪い合い

ということもないことでしょう。

こうした社会の中にあってはアシュタールの語る愛を自薦していくことはなかなか

難しいとは思いますが、少しづつその割合を増やしていくのがこれからの在り方

だろうと思います。







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