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世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたには帰る家があります・・・」 [アセンション]

世にも奇妙なフツーの話「アシュタール:あなたには帰る家があります・・・」



(ここから)

今日のアシュタールからのメッセージをお伝えしますね^^

「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

何度もお伝えしているように、死ぬときは死ぬのです。

死なないときは、死なないのです。

何にでも終りはあります。

終りと思うから怖くなるのです。


死は終わりではありません。

死というのは、形態が変わるだけなのです。

あなたの個性のエネルギーの表現が変わるだけなのです。


身体という物質の中にいたあなたの個性のエネルギーが、それを脱いで

エネルギー体に戻ったというだけのことなのです。

身体を脱いでもあなたの思考は何も変わりません。


車を降りたドライバーと同じだと思ってください。

車を降りても、ドライバーは何も変わりませんね。

しっかりと自分だということが認識できます。


身体という物質には期限があります。

死というのは期限が来たということだけなのです。

また物質世界で遊びたいと思ったら、

一度脱いで、また新しい身体を持って体験することもできます。


ゲームを最後までやって、また新しいゲームをはじめるのと同じです。

ですから、いまやってるゲームを最後まで楽しんでください。

いまのゲームのことだけを考えて楽しんでください。


ゲームを終えたあとのことばかり考えて、いまのゲームを楽しめないなんて

とてもナンセンスなことです。


では、身体を脱いだ個性のエネルギーはその後はどこに行くのですか?・・

ということですが、それはもとの自分に戻ります。

もとの自分・・・絶対無限の存在に戻るということです。

あなたはそもそも絶対無限の存在の別れた一部(小さな絶対無限の存在)

なのです。

その小さな絶対無限の存在が物質世界を体験したいと思って、物質世界で

遊んでいるのです。

そして、物質世界の遊びがもういいかなと思ったら、その身体を脱いで

もとの絶対無限の存在に戻るのです。


身体を脱いで絶対無限の存在にいつ戻るかは、その個性のエネルギー次第です。

絶対無限の存在に戻ると、物質世界での個性のエネルギーとしての記憶は

なくなります(なくなるというか、自分の記憶であるという認識がなくなります)


ですから、もう少し個性のエネルギーとして遊んでいたいと思うなら、

絶対無限の存在に戻るのもゆっくりですし、すぐに戻ろうと思う個性もいます。

絶対無限の存在は、愛そのものですので(愛とは尊重と尊敬と感謝の気持ちです)

とても気持ちの良いところですので安心してください。


ですから、身体を脱ぐことを怖がる必要はありません。

宗教などで言われているような地獄や天国などは存在しません。

その概念はあなたを怖がらせ、思考を操作するために意図的に創られた概念です。

なので、死後のことを考えていまを我慢する必要などまったくないのです。


物質世界は楽しい遊園地です。

思いっきり楽しんでください。

遊園地を出れば、懐かしい家に帰るだけなのです。

あなたには帰る家がありますので、安心していま遊んでいる遊園地を楽しんで

くださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします。」


ありがとう、アシュタール!感謝します。

(ここまで)



アシュタールが語るところを解釈すれば、帰る時期も自分で決めているという事ですね。

生きていると、「いつ死ぬのだろうか?」という疑問を持ちますが、それは「この世界

での体験は十分し尽くしたから、もう元に戻ろう」と思ったときかもしれませんね。

そのときは病気などしていなくとも、不慮の事故とか心筋梗塞などの突然死などとして

到来するような気がします。ただ、あくまでもこれは私の考えですので、別の考え方が

あっても良いだろうと思います。


それと文中でアシュタールが語っていた

絶対無限の存在に戻ると、物質世界での個性のエネルギーとしての記憶は
なくなります(なくなるというか、自分の記憶であるという認識がなくなります)


という部分が気になったのですが、どうやら戻った時にはひとつの集合意識になるようですね。

ただ、以前のメッセージでは自分自身の意識は残る述べていますので、意識は残るけど

体験した記憶は自分自身として個人の体験としてではなく全体の体験の一部に組み込まれる

ということになるのだと思います。


ある日親が自分の子どもに対して一度地球で体験してその内容を戻って来たときに教えて

欲しいと言われて地球に旅立つようなものです。

もちろん地球に旅立つというのは自分の意識で決めているのですが・・・。


そして、戻った時に親が持つ同じような多くの子どもたちの記憶のプールに貯蔵される

ということでしょうか。そんな感じを受けました。

したがって、私たちは個々の意識を持っていますが親の分身だという事ですね。

分身としての行動の自由と選択の自由はあるので何でもできるわけです。

ただ必要なのでは多くの体験した記憶を集めることで親も自分が何者であるかを知ること。

ということになるのでしょう。












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