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破・常識 あつしの歴史ドラマ「アシュタール:罪悪感のトラップ・・・」 [アセンション]

破・常識 あつしの歴史ドラマ「アシュタール:罪悪感のトラップ・・・」



(ここから)

今日の破・常識!



あなた以外の人の現実に

あなたは何も責任を負う必要はない。

そして自分の現実は自分で創造したものであって 

誰の責任でもない・・・らしい(笑)


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では、アシュタールからのメッセージをお伝えします。






「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

罪悪感を持たないでください。

よくたくさん辛い思いをしている方がいらっしゃるのに、

私一人だけ幸せになっていいんでしょうか?・・

というご質問を受けます。


いいんです・・どうぞ誰に遠慮なくとことん幸せになってください。

そんなところに罪悪感は全く要りません。

もし他の人が何か不幸だと見えるとしても 

それはその方が選んでいる現実です。

あなたには関係のないことなのです。

例えそれが家族であっても友人であっても同じことです。

罪悪感は、あなたからとても大きなエネルギーを奪ってしまいます。

何があっても あなたが罪悪感を感じる必要はないのです。

罪悪感を感じてしまうと 現実を止めてしまうことになります。

幸せになると意図していても 罪悪感を受け入れてしまうと

その意図のエネルギーにブレーキをかけてしまうことになるのです。

幸せになる(人それぞれ幸せの概念は違いますが・・)

という方向へエネルギーを流していても 

自分一人が幸せになっていいのか?という罪悪感を感じてしまうと

そのエネルギーの流れを止めてしまうので、

求めている幸せの現実は創造出来なくなります。

すべての人は、みんな自分の思考で現実を創造しているのです。

だから誰もその人の現実に責任を感じる必要はないのです。

自分だけが幸せにありたいと思うのは

”人でなし”でも”自己中”でもありません。

あなた達は何かにつけ 罪悪感を感じるように

刷り込まれているのです。

それはあなた達を支配・コントロールする存在にとって

都合がいいからです。罪悪感は、

あなたの波動を粗く重くするのにはとても効果的だからです。

すべて自分が悪いからだ・・という考え方を刷り込んでいれば、

あなたは自由になれないからです。

誰かが不幸なのも私がちゃんとしてあげられなかったせいだ・・

という思いにしばりつけて置けば 

あなたは自由になることが出来ません。


太ってはいけないと思っていると 

食べることにさえ罪悪感を感じます。

自分は、自分の食欲さえコントロールできないダメな人間なんだと

思わせることが出来ます。


これが人に対する優しさです・・

というモデルケースを見せつけておけば 

そのように出来ない自分はダメだと罪悪感でいっぱいになります。


親孝行しなさいと親孝行のモデルケースを教え込まれていれば 

そのように出来ない自分に大きな罪悪感を持ち 

自分を責め続けることになります。


みんなで一斉に何かすることが社会人として必要なんだ・・

と思い込ませておけば みんなと一緒に出来ない自分は

ダメな人間だと落ち込ますことができます。


精神性の高い人はお金を欲しがらない、

奉仕の精神でボランティアでするものだ・・

と思い込ませておけば、お金を欲しがることに

罪悪感を持たせることができ お金は欲しい、

でもお金を欲しがると精神性が低くなる・・などという

グルグルとした葛藤の中に居続けさせることが出来ます。


これはほんの一部の例にすぎません。あなたの生活の中には 

罪悪感を感じさせるための仕組みがたくさんあるのです。

本当にさりげなくあらゆるところに仕組まれています。

あなたの波動を粗く重いところに縛りつけておくために

たくさんの仕組みが用意されているのです。

罪悪感を感じたら どうして今自分は罪悪感を感じているのだろう?

と少し考えてみてください。

どうして太っていてはいけないのか? 

どうして食べることを我慢しなければいけないのか? 

それは本当に自分自身が望んでいることなのか?

いろんな角度から考えてみてください。

罪悪感に関して いろんな角度から検証する習慣がつけば

たくさん張り巡らされているトラップから抜け出ることができます。

人はそれぞれ自分で自分の現実を創造しているのです。

あなた以外の人の現実に

あなたは何も責任を負う必要はないということ。

そして自分の現実は自分で創造したものであって 

誰の責任でもないということ。そのことがわかれば、

罪悪感のトラップを見つけることが簡単になります。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール!


(ここまで)


罪悪感というのは何でしょうね。

これが正しいというモデルケースを教えられ、それに反する行為はすべて

罪を償うに値するものであり、その責任は自分自身にあると思うことです。

例えば宗教の示す正しい行為とは・・・

潔癖で、汚れのない心を持ち、自愛に溢れ、貧困にあっても喜びを持ち、困っている

人がいれば自らを犠牲にしてもその人を助けることをいとわない。

そして常に笑顔を絶やさず、正しいことを行い人々に希望を与え続けられる人。

しかし、そんな人どこを探したらいるのでしょうか?

前述した内容をすべて出来る人なんてこの世には存在しません。

その一部ならあり得ることですが、本来不可能な課題です。


そして面白いのがキリスト教であるなら神に対して自分の犯した罪を告白すれば

全ての罪は許され免罪符をもらえるという「懺悔の行為」です。

しかも、神に直接告白するのではなく聖職者という地位にある人間に対してですよ。

どこかおかしいと思わないのだろうか?

正しくあれと罪の意識をさんざん持たせておきながら、懺悔ですべてが許される

ということなら何でもできるでしょう。最後に罪の告白さあエすればいいんですから。

さすれば、キリスト教に入信してない一般人はさしずめけだもの以下ということに

なるのでしょう。

いったい誰がそのような権利があって誰が定めたのか?

イエスキリストでしょうか?神でしょうか?

そのどちらも実際に見たこともあったこともないはずですが、架空の存在に対して

祈っていることに等しいものです。しかし、宗教は信じてしまえばそこで何もかも

が正当化され、存在しないものも存在することになってしまいます。


こうした多くの罪の意識から脱却していかない限り本当の自由にはなれないこと

と思います。そして、そのほとんどが自分で自分をしばりつける言い訳を自分で

作っているという事にも気づかないといけないでしょう。






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