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破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:あなたは私、私はあなた・・・」 [アセンション]

破・常識あつしの歴史ドラマ「アシュタール:あなたは私、私はあなた・・・」



(ここから)


今日の破・常識!



絶対無限の存在の情報の海に戻った素のエネルギーは、

すべてを共有します。

すべての情報が自分のものになるのです。

あなたは私、私はあなた・・・byアシュタール


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今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。






「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。

何度も言いますが、死は消滅ではありません。

死ぬと言われている現象は、ただ意識エネルギーが

身体という物質から抜けるというだけのことです。

あなたは身体ではなく、意識エネルギーなのです。

身体があなたなのではなく、意識エネルギーがあなたなのです。

主が意識エネルギーであり、身体は従です。

分かりますね。

ですので、身体を脱いでもあなたの意識は何も変わりません。

身体を車、ドライバーを意識エネルギーだと

イメージすると分かりやすいと思います。

ドライバーは車から降りても何も変わりませんね。

それと同じです。

そして、身体を脱いだあと意識エネルギーは

もともとである絶対無限の存在へと戻ります。

身体を脱いだ意識エネルギーは、

まだ個性のエネルギーとしての記憶を持っています。

どういう事かと言えば、身体を脱ぐ前に体験したことを

記憶しているということです。

自分は○○という名前で、性別は女性で

どういう環境にいて、どういう体験をしたか・・

ということを記憶しています。

この記憶を持っている状態が個性のエネルギーなのです。

絶対無限の存在は大きなデータベースだと思ってください。

大きな情報の海なのです。

そして、身体を脱いだ個性のエネルギーは

絶対無限の存在に戻るとき、その記憶を

すべて絶対無限の存在の海に入れます。

情報の海に自分の情報を入れた時

その個性のエネルギーは素のエネルギーとなるのです。

素のエネルギーというのは、

ただ私は存在していると意識している存在です。

自分がいると認識しているだけの存在です。

名前も性別もどこの惑星にいたかも

どこの次元に共振していたかも全部関係なくなります。

ただ、自分がいる・・それだけです。

自分がいると認識しているだけじゃ

なんだかさみしいですねと思うかもしれませんが、

ここからがまた、あなたの常識の外の情報になりますので

ちょっと理解しにくいかもしれませんが、

少しおつきあいくださいね。


絶対無限の存在の情報の海にある情報はすべて共有されます。

ですから、素のエネルギーとして絶対無限の存在に戻ったら

すべての存在として認識するのです。

?????ですね(笑)

アキさんだった人が体験した情報を

ミサさんもアキさんとして体験できるということです。

ミサさんの記憶も同じようにアキさんとして体験するのです。

アキさんとミサさんは同じ存在なのです。

これがワンネスということです。

絶対無限の存在の情報の海に戻った素のエネルギーは、

すべてを共有します。

すべての情報が自分のものになるのです。

あなたは私、私はあなた・・・

ですので、例えばあなたの社会で

イジメる人とイジメられる人がいますね。

いまの社会の中にいるときは、どちらか片方の体験しか出来ません。

そして、個性のエネルギーとしてどちらかの経験をします。

Aさんはイジメられるという経験をし

Sさんはイジメる方の経験をします。

でも、絶対無限の存在に戻ったとき

Aさんの経験(イジメられたときの感情など)を、Sさんも

まったく同じように(Aさんになったように)感じることになるのです。

Aさんも同じです。

Aさんも、絶対無限の存在に戻ったときに

Sさんになるのです(Sさんとして同じ経験をすると

言えば分かりやすいでしょうか?)

どちらの経験も共有するのです。

ですから、よくあなた達が言うように

やったもの勝ちということはないのです。

いまの社会で勝った?良い思いをした?と思っても

絶対無限の存在に戻れば、負けた?ツラい思いをした?

人の経験も共有するのですから、やったもの勝ちにはならないのです。

あなた達の社会では、宗教などによって

善悪や復讐などの概念が刷り込まれてしまっていますので

この話はちょっと難しいと思います。

結局は、どちらも経験するということですので

復讐などをしようと思うのはナンセンスだということですね。

いつか痛い目にあえばいいのに、罰が当たればいいのに

・・などと思うことがあると思いますが、

そういう考えは、自分に向けているのと同じなのです。

痛い目にあえばいい・・でも本当にその人が痛い目にあったなら

自分もその人と同じ痛い目を、その人になって体験するのです。

理解していただけましたでしょうか?


話しが大きく逸れてしまいましたので、もとに戻しますね。

自然死でも、自死でも、老衰でも、病死でも、

戻るところは、みんな同じ絶対無限の存在です。

じゃあ、どうして幽霊などと呼ばれるような存在がいるのですか?

ということですが、それにはいろいろなストーリーがありますが・・

先ず身体を脱いでもあまりに何も変わらないために

自分が死んだということに気がついていないこともあります。

もう一つは、執着です。

個性のエネルギーの記憶に執着するあまり

絶対無限の存在に戻り素のエネルギーとして

存在することを拒否することもあります。

どのストーリーにせよ、自分で選んでそこにいるということです。

ですので、自分が身体を脱いだことを理解し

戻りたいと思うならば、どんな脱ぎ方にしろ

必ず絶対無限の存在に戻りますので安心してくださいね。


あなたに愛をこめてお伝えいたします」



ありがとう、アシュタール! 


(ここまで)


悪いことをしても、良いことをしてもそれも自分の体験であり

自分が誰かをいじめて辛い思いをさせたとしても、亡くなった後には

そのいじめた相手の体験も自分もするということですね。

「なぁ~んだ、それじゃどっちでもいいじゃないか」と

思うかもしれませんが、出来れば辛い思いなんかしたくないですよね。

ということはいじめても最後は自分が辛いだけだからしない方がいいと

いうことになります。

逆に楽しい思いをさせてあげれば、その人は十分に幸福な気分を味わえる

のですから、亡くなった後で自分もその楽しかった思いを味わえるという

ことになります。

そう考えると・・・。

いじめたり、辛い思いをさせない方が自分が幸せ気分になるということです。


しかし、世の中どちらも存在します。

それでも、自分がどちらの方のウエイトが高いかを考えてみればおのずと

どちらの方の自分が良いかわかりますね。


でも、選択の自由があるので、どちらを選択するかは個々の自由であり

誰もそれに文句をつけたり罰したりすることも意味がないことになります。


人を殺して罰として収監されつらい日々を送ったとしても、それは自分

自身のつらい体験かもしれませんが、亡くなった後には殺された人の気持ち

を十分味わうことになります。残された家族の思いとか、親友だったと

すればその友人の気持ちなどが後でわかることでしょう。


また、この世で極貧の辛さを味わったとしても、亡くなった後にはお金持ちで

裕福な生活をした人の体験を共有できるのですから、最後は体験に価値がある

ということになります。


それは、ある意味ではよくできていると言うと怒られるかもしれませんが、

要はすべてを知りたいからという大いなる意識の原則がそこにあるからかも

しれませんね。



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